雨ににじむ山桜を遠く見て、まばたきしたくなる詩、三つ
阿蘇豊
ソメイヨシノが散り、雨がふり、向こうの森の山桜が白くにじんでいる。春だ。季節は微速度的に変わるとしても、今は春だ。そういえば、早朝、ホーホケキョが聞こえた。なんども失敗して、たまにきちんと歌った。カーテンの隙間からのぞいても、姿は見えない。どれ、僕も起きて、今日歌う歌を練習しよう。
着想の妙ですね。ことばの中でうずくまっていることば。ことばで遊ぶ。ことばを遊ぶ。これも詩のだいご味。「悲しみ」と「慈しみ」の漢字も似ていて、性格の違う姉妹みたいに見えてくる。「しみ」って、皮膚のしみも衣服のしみも喜ばれてはもらえなさそうだけど、生きるってことはそんなしみを背負っていかなくちゃならないこと? そうだとしても、できることなら、「楽しみ」や「おかしみ」も加えて、少しにぎやかにやっていきたいと僕は思う。
虫たちが教えてくれることって、たくさんあるんだよね。鳴かない蝉がズボンに「縋りつくようにとまった」ことで、ふいに世界の基本的な構造に気づく。そうだな、男と女の数はだいたい同じだし、こちらで、泣いている人たちがあれば、ほぼ同数の笑っている人がどこかにいるに違いない。悲しさとうれしさ、正と負、明と暗。世界はその間を、見えはしないが、偏りすぎないようバランスを測りながら回っているのだと思えてくる。
作者の、この詩誌に載せている作品のパターンは同じで、(むこうからくる人がみなわたしとすれ違う少し手前で横道に逸れていく)というフレーズを最初の一行に置く。これはどんな意図なのだろう。次の行から始まる内容と、どう関わるのだろう。この一行は、他人とうまく行きあえない孤独感とも、願うことが果たされない夢の記述ともとれる。
で、いつもこのパターンのほかの作品にはなかなか入っていけなくて、?を2つ3つ連ねて終わってしまうのだが、この「初夏のしるし」にはひと目見るなり、つかまってしまった。
初夏の朝のにおい、手触りが色濃く漂う。第一連の植木鉢に当たる陽、朝刊のまるみ、そしてその重さで初夏を導入する。// そうか、新聞は「過去が隠し持っている未来」なのであるか。// 細長いかごとは何だ。時間だろうか。ト書きのような一日とは。すでにあつらえられたプリペイドのような一日か。(なんのこっちゃ)// (アジアの知らない町を歩いているような)// 消しゴムのカスは誰かが何かを行った痕跡・・・// げんじつのひとのゆめにたちあって からだにあたたかいえきたいがはいる// (今日、いけるよ、よかったね)
この詩は一枚の抽象絵画のように見えて、あれこれチクチク触発される。
知らない道すじを歩いている。咲く花の名前は知らない。けれど、風は爽やかで、いい気分だ。非力な僕の蝶も勝手気ままに羽ばたける。こんなふうに。
阿蘇豊(あそ・ゆたか)
1950年生 山形県酒田市出身
詩集
『窓がほんの少しあいていて』(ふらんす堂、1996年)
『ア』(開扇堂、2004年) 他
『シテ』『布』『ひょうたん』同人