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《第二期》詩の散歩道 2

かじかんだ指をぬくめてくれる詩、三つ

阿蘇豊

 2016年、あけましておめでとうございます。
 ということは、2015年という年は過ぎてしまったということなのですね。もうあの時間を味わえない。あたりまえのことですが、そう思うとどこかふしぎな気分になります。そんなふうに過去を気遣ったことなんてないのに。知らず知らずのうちに視線が過去のほうに引っ張られているのだろうか。なら、過ぎ去った事柄をふりかけのようにまぶしながら、折々の散歩道に咲く花々をたのしめばいい。

 とある秋の夜更け、思わずニヤッとさせられる詩に出会った。好きなタイプの詩だ。現実と非現実のあわいあたりをふわふわ浮いている、そんな調子の一品。

  ねじ

細君が床からちいさなねじを拾いあげた
てのひらにのせて訊かれても
どこから落ちたねじだか すぐにはわからない
そのうち腑に落ちるさ
いつかもこんなことなかった
あった あった
わかったときは ねじがどこかにいってしまって

「ねじ屋の女房」こと前田さんによれば
<つなぐ物の素材でねじの種類が決まってくる>そうだが
ちいさなねじが
我が家のどんな素材をつないでいたかは
なかなか 決まらない
うん わすれることにしよう

夢を見た
あなた 腰の第二百十関節のねじがないですねといわれた
そんな関節があるんですかときくと
人体には三百六十五の関節があって
みんなねじでとめてありますと
ここで目が覚めた たいへんなことになった

あれ どこにしまった
あれでしょ 忘れることにしたんじゃなかった
うん みつかったら頼む
前田さんだったかもしれない きいてみよう
その夢 噴飯ものでしょう
しかし 腰だそうだからなあ
ちいさなねじのことで
二人とも浮かぬ顔をしている

<  >の部分、前田経子詩集「ねじ花抄」より

 (林堂一 詩誌「アリゼ」167号)

 あるある、こんなこと。どっから落ちたかわからない小さなねじを踏んじゃって、ギャッと叫んだり。そんなあたふた、あやふやを、軽妙な、余裕を持った筆で書き進めていく。話しことばだけど、だれがいったかなんて、書かなくてもわかるように仕組まれている。 洒脱、なんてことばが浮かびます。
 ところで人間の体に365の1年と同じ数の関節があって、ねじでとめてあるなんてね。夢に責任がないとはいえ、思わずロボットかサイボーグを連想してしまった。で、この人、きっと腰が悪いのでしょうね。夢とはいえ、気になっているものだから、腰の第210関節(どこだ!)のねじがないですね、と言われて、目が覚めたあともどこそこ落ち着かない。その辺の気分の出し方がウマい。最後の締めも、おさまりのつかない不安感を宙に浮かせたまま、読み手のニヤッを誘う。

 もう一つ、どうにも何度も読み返してしまう詩集が11月に届いた。その中の短い一篇。

  爪

指先だけを使い
ゆっくりと窓を開ける
正真正銘の
真夜中
夜が入ってくる
部屋の中でくすぶりつづけていた
今日の吐息が
明日の窓の外に投げ出されていく
ぼくは
爪を切る
短く
パチン

(金井雄二 詩集「朝起きてぼくは」より)

 これ、どうですか。ごく普通の情景を言葉にしただけのようだけど、ふいに何度も思い出し、なんども読んで確かめてしまう。自分の中で、これ、なんてことないのにな、と、これが、これこそが詩だよ、が向き合っている。実は、あとのほうに私の賛意を示したいのだが、なぜと自問しても、うまくひもとけない。いいさ、しばらくこのまま、思い出すままにしておこう。そうやって出し入れするうちに、適当に咀嚼できるようになるかもしれない。

 次に、では、こんな詩はどうだろう。

   静けさがほしい

梅雨前の重苦しい空の下で
喘いでいる血管
塞ぎこんでいる心臓
家には誰一人いず
取り残されて 静かなのに
しきりに願う静けさ

風が吹く
薔薇が揺れる
カーテンが騒ぐ
遠くを走る電車の音
もっともっと静けさがほしい
ただここにあることに浸る静けさ
ああ 静けさがほしい

静けさは過去からやってくるのだろうか
幼かったころの無邪気さの中から
それとも それは私が滅びた後の未来から
息子の娘のそのまた息子の娘の時代から
やって来るのだろうか

いや
それはもっともっと近くて
もっともっと深いところからやってくるようだ

泉のようなもの
小川のようなものが
この胸の奥深いところに隠されていて
その流れの音が聴けるほどに
じっくりと
耳を澄ます余裕を持ったとき
やさしい鳥の羽ばたきのように
静けさの水音が聞こえてくるようだ

(向井千代子 詩集「ひたひたひた」より)

 ストレートな詩ですね。思いのたけを存分に盛り込んだという感じの一篇。タイトルもそんな思いそのまま。この夾雑物のない直球勝負を好ましく思えました。
 「ただここにあることに浸る静けさ」、惹かれるフレーズだ。ことばの意味からいうともう一つはっきりしないけれども、言いたいことはそれなりに伝わってくる。はたして、だれもいない静かであるはずの家に一人いて、なお「もっともっと近くて/もっともっと深いところからやってくる」静けさって・・・?(私は遥かなる血すじを想像したりしたのだが。)
 ラストの部分、静かさに鳥の羽ばたきはあまり似つかわしくないように思うがどうだろうか。それから、最終2行に「よう」が並ぶのも少し気にかかる。
 とはいえ、なにか、涼やかな風に肩を押されてたどりついた先に小さな湧き水をみつけたというふうな清々しさを感じた一篇だった。

profile

阿蘇豊(あそ・ゆたか)

1950年生 山形県酒田市出身
詩集
『窓がほんの少しあいていて』(ふらんす堂、1996年)
『ア』(開扇堂、2004年) 他
『シテ』『布』『ひょうたん』同人

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