かじかんだ指をぬくめてくれる詩、三つ
阿蘇豊
2016年、あけましておめでとうございます。
ということは、2015年という年は過ぎてしまったということなのですね。もうあの時間を味わえない。あたりまえのことですが、そう思うとどこかふしぎな気分になります。そんなふうに過去を気遣ったことなんてないのに。知らず知らずのうちに視線が過去のほうに引っ張られているのだろうか。なら、過ぎ去った事柄をふりかけのようにまぶしながら、折々の散歩道に咲く花々をたのしめばいい。
とある秋の夜更け、思わずニヤッとさせられる詩に出会った。好きなタイプの詩だ。現実と非現実のあわいあたりをふわふわ浮いている、そんな調子の一品。
あるある、こんなこと。どっから落ちたかわからない小さなねじを踏んじゃって、ギャッと叫んだり。そんなあたふた、あやふやを、軽妙な、余裕を持った筆で書き進めていく。話しことばだけど、だれがいったかなんて、書かなくてもわかるように仕組まれている。 洒脱、なんてことばが浮かびます。
ところで人間の体に365の1年と同じ数の関節があって、ねじでとめてあるなんてね。夢に責任がないとはいえ、思わずロボットかサイボーグを連想してしまった。で、この人、きっと腰が悪いのでしょうね。夢とはいえ、気になっているものだから、腰の第210関節(どこだ!)のねじがないですね、と言われて、目が覚めたあともどこそこ落ち着かない。その辺の気分の出し方がウマい。最後の締めも、おさまりのつかない不安感を宙に浮かせたまま、読み手のニヤッを誘う。
もう一つ、どうにも何度も読み返してしまう詩集が11月に届いた。その中の短い一篇。
これ、どうですか。ごく普通の情景を言葉にしただけのようだけど、ふいに何度も思い出し、なんども読んで確かめてしまう。自分の中で、これ、なんてことないのにな、と、これが、これこそが詩だよ、が向き合っている。実は、あとのほうに私の賛意を示したいのだが、なぜと自問しても、うまくひもとけない。いいさ、しばらくこのまま、思い出すままにしておこう。そうやって出し入れするうちに、適当に咀嚼できるようになるかもしれない。
次に、では、こんな詩はどうだろう。
ストレートな詩ですね。思いのたけを存分に盛り込んだという感じの一篇。タイトルもそんな思いそのまま。この夾雑物のない直球勝負を好ましく思えました。
「ただここにあることに浸る静けさ」、惹かれるフレーズだ。ことばの意味からいうともう一つはっきりしないけれども、言いたいことはそれなりに伝わってくる。はたして、だれもいない静かであるはずの家に一人いて、なお「もっともっと近くて/もっともっと深いところからやってくる」静けさって・・・?(私は遥かなる血すじを想像したりしたのだが。)
ラストの部分、静かさに鳥の羽ばたきはあまり似つかわしくないように思うがどうだろうか。それから、最終2行に「よう」が並ぶのも少し気にかかる。
とはいえ、なにか、涼やかな風に肩を押されてたどりついた先に小さな湧き水をみつけたというふうな清々しさを感じた一篇だった。
阿蘇豊(あそ・ゆたか)
1950年生 山形県酒田市出身
詩集
『窓がほんの少しあいていて』(ふらんす堂、1996年)
『ア』(開扇堂、2004年) 他
『シテ』『布』『ひょうたん』同人