人から本を薦められても、聞き流してしまうことがある。だが同じ本についてどこかでもう一度きいたとき、知識はからだに入ってくる。誘われる。読みたいと思う。読書は「二つになると、はじまる」と荒川洋治は言う。
実際どうなのだろう。デュマ・フィス『椿姫』(光文社古典新訳文庫)は、本著に二度登場する。「ひとりの女性の心が、目の前に現れている。(中略)人の心が現れるのは現実生活のなかでも、小説のなかでもいまはめずらしいことだ」とある。たしかにヒロインのあらわになる心の重みが、物語の重みと等しく感じられた。
本著には、さまざまなかたちで文学と出会うための道すじがつけられている。伊藤整、松本清張、チェーホフ……。市井の人の詩にも目をとめる。真壁仁編『詩の中にめざめる日本』(岩波新書)から、おじいさんの書いた現代詩や炭坑で働く女性の詩、戦前に生きた十二歳の少年の詩をひもとく。
「人間の精神を育て、人間のために力をふるう文学は、実学なのだ」
とそこに力点を置く。が、対する現実では、他者への関心が薄まっているとみる。
「「文学者」がいたことを、今日の読者は知らない。(中略)作品だけを書いて、みちたりる作家しかいないからである。興味の幅がせまくなった。興味をひろげるための空気をどのようにつくりだすかという心のはたらきもにぶる」
語気するどく正論がふりかざされるのか、と思えばそうではなく、著者は軽やかに文学散歩をはじめる。多岐にわたる書物をあれこれとりあげながら、思索をめぐらせ、本の魅力を読みひろげていく。
チェコの作家、イヴァン・クリーマの作品集『僕の陽気な朝』(国書刊行会)を挙げるとき、小説の内容にふれるとともに「クリーマはそのあと、どんなものを書いたのか」とその後の活動に思いを馳せる。けれども日本語訳が途絶えていてわからない。外国語という境を前にして「いま自分がこの国にいること、ひとつの国のなかで生きることを思う」と荒川はひとりの書き手としてつぶやく。そのつぶやきは小説の場にとどまらない。同じく国というもののなかで生きる私たちが、自身を俯瞰する視点に通じていく。
もう一つ。「……生きることを思う」でそのエッセイをしめくくるのだが、荒川の意図的な舌足らずさがにじむ。何を「思」ったかを言い切らない。あなたなら、現代の外国文学とどうつきあいますか、といった投げかけの余白が、そこに生まれる。
言い切らないことの意味合いは、小熊秀雄をとりあげる小文から受け取れる。ラジオ番組でアナウンサーが、小熊のプロフィールを過不足なく紹介する。が、荒川はそこに違和感をおぼえる。「十分なもの」を与えられることで、その先へと心が動かない。「奪われている。だから、ゆたかにならない。深いところに行けない」
もし文学が存分に力を発揮したなら、それは精神を育てる「実学」となるだろう。しかしその力が去勢されたら、どうか。「十分なもの」を知って安心し、完結してしまう。心を動かす余白は生まれない。身動きがとれない。そこで精神もまた、去勢されはしないか。興味をひろげるために必要なのは〈気になるもの〉であって、「十分なもの」ではない。
そう、あえて文学を実学であると言い直さねばならない時代は貧しい。やや飛躍した言い方をすれば、その貧しさを前提にして〈文学も実学だ〉と述べているとしたら、そこにあるのは荒川の優しさではないだろうか。世の中が実学偏重になるのは、生きる道すじが窮迫してみえないせいにちがいない。だが特効薬ばかりを求めて、免疫力が衰える一方ではロクなことがない。そんな余裕を失った心に向けて、文学も実学だよ、ほら、生きることを支える文学がここにも、そこにも門をひらいているよ、とメッセージを送る荒川の語り口はおどろくほど優しい。
「自然との関係を失ったいまは、読書をしなくては人間らしい人間になれない。(中略)そうはいっても、ぼくもまた、読書はむずかしいなあ、と思うもののひとりだ」
「無理する必要はない。人の話をきくだけでもいい。そこから自然に、読書が生まれる」
読み手ありきの読書。心ありきの読書。そうだからこそ、文学の門に歩み寄れる。
どこから作品が生まれ来るか、その要所を知っている荒川ならではの視線はやわらかく、創作の秘密にもふれている。たとえば高見順の詩作について「少し無理があっても、感じたことはそのまま進めるという書き方」をすくいとって肯定する。こうしたことはなかなか言われないが、大事なことだと思う。ものを書くうえでのヒントに事欠かない本著は、文学の門であるばかりか、創作の門にもなっている。