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今、詩歌は葛藤する 48
〜『花とあきビン』、金子光晴その18〜

竹内敏喜

 光晴が生きている間に刊行できなかった著作のひとつに、彼と森三千代の自選エッセイ集『相棒』(一九七五)がある。没後一カ月ほどで出ているので、編集等は完全に終わっていたと思われるが、この本には、一九五九年に出された『日本人について』から、エッセイ「女について」も転載されている。六四歳ごろに抱いていた感想が、約八〇歳の最晩年に自選されているわけで、これは本人の愛着を示すものといえよう。あるいは、愛し憎んだ妻への皮肉として、そっと挿し入れたのだろうか。いずれにせよ、その悲観的な内容をあらためて公にしたのは、一種の本音を残そうとしたからにちがいない。一部を挙げる。
 「男は自分が愛したいとおもうほど、誰をも愛することができない。何十世紀のあいだ、男が女を愛したというのは、嘘だった。——男はまがりなりにも自分をもっているので、どんなときにも、自分をのりこえるものを許す気になれないのだ。女の大きな報復と言えば、女は、男を愛することができたということだったが。女も、男のように自分をめざめさせることになると、男を愛することができなくなるかもしれない。そして、鏡にうつった顔でしか、ほほえみかけなくなるだろう」。
 この文章の前半の男女のイメージを要約するなら、男はその自意識が理性に忠実であるほどに、自分の想像する愛の完全な実現は困難であることに気づき、女はその自意識が感性に忠実であるほどに、パートナーとの愛の不完全さはより良き未来への可能性だと信じる、のように見極められそうだ。また、「男はまがりなりにも自分をもっている」とは、あらゆる他者が競争相手であることをあらわし、「女は、男を愛することができた」とは、一人の異性との親和により、他のすべての者を自意識から排除できることに通じるだろう。こうした思考は、この詩人の限界を示してもいるだろうけれど、彼の詩作品から推測してみると、結婚後すぐの時期にも自覚されていたと判断できる。そのうえで光晴は、他者との競争を避けるかのように詩人として孤独の深みにはまっていき、三千代は何人かの利用すべき「男を愛すること」で文筆活動の肥やしにしていく。その結果、両者の成り行きまかせな生き方は、光晴のニヒリズムの根をさらに強固にしていったと思われてならない。
 だがもちろん、彼の人生において心を癒してくれる存在がいなかったわけではない。当然のことながら、一人の息子と二人の孫には、「自分をのりこえるものを許す気になれない」といった感覚はあまりなかったはずだ。この親愛の気分は、老人となった彼の述べる「プラトニック・ラブ」にも影響していただろう。その純度は人によって異なるゆえに、前回の稿で、「目の前の女性の向こうに、宗教的とも呼べる昇華された女性像が思い描かれるはずだ。おそらく光晴の抱いたイメージは、マリアよりもダキニに近かったのではないか」と記したが、この死の恐怖をまとうダキニでさえ、光晴流に昇華されることで、一時的に「花」と「あきビン」といった形象化に至ったと感じられないこともない。すなわち、花とはすべての女であり、あきビンとは生殖能力を喪失した詩人自身の比喩だと考えられる。これはかつて、作品「女への弁」(詩集『女たちへのエレジー』収載)で「だが、愛のすべしらぬ偽りの女、/その女だけは蔑め。それは女であつて女でないものだ。」と宣言した者にとっては、切実な降格を意味するのではないか。なぜなら、自分の方が女を満足させられなくなったからである。これらの発想の背後には、「花」を死と隣り合わせの芸と見立て、世代を越え「晴れの若さでかがやく美貌が、つぎつぎに受けわたされる」様子が重ねられるとともに、「あきビン」については個としての人間の本質と捉えつつも、「男の人生では、女の生きかたが無意味にみえる」といった実感をも潜ませているようだ。こうした関係性は、能力の衰えた老年期の者には絶対的であろうし、自覚すればするほど地獄にいる気分が感受されただろう。そこで文筆への執着となり、意図せず権威的になっていく。
 さて、生前最後の詩集となった『花とあきビン』(一九七三)から、巻末の作品「エピローグ」を引用する。

そんなに扉を叩かないで。ほんのすこし待っててください。
じゃんじゃんと電話を鳴らさないで、

西洋将棋のこまの、寝てゐる僧正(ビシヨツプ)や、騎士(ナイト)を立てて、置き竝べるまで、ほんの僅かの暇なのです。
いづれにせよ、順風に帆を孕んで、いまやっと、僕の時間が辷りださうとするところで

大切なこの機会を、いはれもなしに擾されたくないといふわけです。
でも、それは、ことによると、僕の人生がふたたび浮びあがれない終末へ辷りこんでゆきつつあることの錯誤(まちがひ)かもしれません。
———でも、それは、どっちでもおなじことでせう。

元来、他人の迷惑など、気にかからないのが本筋とすれば、こちらもこちら。
叩いてゐるのが誰にせよ、頭から無視してゐればよい筈だが、

たったいま、忘れてしまったあの娘(こ)の名が釣絲にひっかかって
(めったあることではありません)おもひ出せさうになってゐるところなのです。

僕がいま、それをおもひださなかったら、この世界がこれから先百萬年つづくとしても
他の誰がおもひだすことでせうか。

他の誰にしたところで、注意が疎略で、うはべの美しさしかわからないのです。
彼女がそれを打明けなくても、僕にはわかるのです。忍冬(すひかづら)の蔓が、自然薯(じねんじよ)につづいてゐることを。

条件がすべて適當でなければ、すこしでも邪魔が入っても
それはむづかしいのです。なにしろ一度は、不覚にも時のながれに手わたしてしまったものですから。

後生ですから、もすこし待ってください。大事な機会をつかみかけてゐるのですから。
君の用件は、あとで、なんでも伺ひますから……。

僕の小便が入ってゐるので、あたたかい体温が通ひあふ
柔いビンを抱いてねるこのもうろく爺さんが。

食べこぼしたパンの屑を、必死になってひろふやうに、
寶石のやうに燦いてゐる床のうへの青春をひろってゐるところですから。いま。

 語り手が、自己の状態を肯定的に説明している後半部分から解釈していくことにする。まず、「僕の小便が入ってゐるので、あたたかい体温が通ひあふ/柔いビンを抱いてねるこのもうろく爺さんが。//食べこぼしたパンの屑を、必死になってひろふやうに、/寶石のやうに燦いてゐる床のうへの青春をひろってゐるところですから。いま。」の一節、これは「僕」の現状を告げているわけだが、このビンを性的能力を失った男性性器と捉えるなら、満たされたあたたかさは、寶石のようにみえる青春の思い出を振り返ることができる現在を知っていることで成立している、と理解できよう。たとえ、あたたかさの原因が小便(自己の経験の残りカス)であるにしても、食べこぼしたパンの屑(女性に対してうまく立ち回れなかった記憶など)を想起させる点にやはり意義はあり、多くの失敗談を味わい直すという決意において、チャップリンの喜劇のように感慨深いものが辿れるはずだ。
 余談になるけれど、チャップリンの『自伝』には次の言葉がみつかる。「偉大な俳優であるための必須条件は、演技する自分を愛するということである。決して悪い意味で言っているのではない。よく役者が、『なんとかあの役演ってみたいなァ』というようなことを言うことがあるが、つまり、それはその役になった自分を愛するということなのだ。なにかひどく自己本位のように聞こえるかもしれぬが、由来偉大な俳優というのは、なによりもまず自分の芸のことを考える。(略)つまり、芝居好きというだけでは足りないのであり、同時に、自分自身に対する熱烈な愛と、そして信念が絶対に必要なのである」。
 この指摘は、金子光晴という詩人にもあてはまりそうだ。むしろ、彼の世渡りの方法の本質を突いているかもしれない。また偶然ではあるが、二人は顔を合わせてはいないものの、空間的に非常に近い場所にいたことがある。『鳥は巣に』(一九七五)から引く。

 「この船にチャップリンが乗ってるそうですな」
 客の一人が表から入ってくると言った。
 (略)
 そこへ昼食をしらせのボーイが入ってくるともう八方から攻め立てられていた。
 「チャプさんは、なんやら仕事があって、航海じゅう部屋に引きこもって、誰にも会わんそうで……チャプのことは、三等のお客さんにはしらせんように念入りに上から言われておりますので」
 (略)
 僕は、二階寝台の上から、それをきいていたが、僕じしんも、すこしの年齢のちがいから、この世界的なコメディアンに幼い日々をなぐさめてもらったものである。そして、いまでは、世界中の子供たちが、彼を迎える歓声で、地球の芯までしびれている。(略)あやつり糸が切れたように、手足をふらふらさせ、山高帽子にチョビ髯、ステッキのこの二十世紀の道化が顔を出すと、身振り沢山なむかしの彼の笑いは、今では演技過剰とでもいうほかなくなってしまったが。

 これは一九三二年のことで、光晴が二度目のヨーロッパ行きから帰る際の出来事である。船は五月一四日に神戸に着いており、光晴の方は「彼女が、宇治山田にいたならば、出迎えに来ているかもしれないと、一わたり眼でさがしたが姿がなかった。そのかわりに彼女の実弟の姿があって、しきりに手をふっていた」(『西ひがし』より)のようにあっさりとした記述だが、その隣ではチャップリンをめぐり、「飛行機が船の上空を旋回して、歓迎ビラをまき、埠頭には何千もの群集がつめかけていた。林立する煙突とうす汚れた埠頭をバックにした、無数のあでやかなキモノ姿は、いかにもチグハグな美しさだった。日本人の歓迎ぶりには、噂に高い神秘性も慎みもほとんど感じられなかった」(『チャップリン自伝』より)といった興奮と熱狂の坩堝が起こっていた。ここだけを取り上げると、チャップリンに対する先ほどの光晴の冷静な視線と、日本人の歓迎の様子を眺めるチャップリンの醒めた視線は似ていると感じられる。つまり、演技過剰なものに、二人とも心を動かされなくなっているのだ。だが、観客の側から主張するなら、それぞれの活動分野を見渡し、この二人くらい演技過剰であった表現者はいないのも事実であろう。ならば、この時点以降の晩年の仕事の方向性について、両者を比較しつつ確認するのもおもしろいかもしれない。
 まず、映画『ライムライト』についてチャップリンは、「自作ながら客観的に見るだけの余裕はあったつもりだが、正直に言って感動した。(略)作者自身が感動しないような作品で、どうして大衆の感動を期待できるかということである。率直に言って、わたしはわたしの喜劇を、観客以上に楽しむのがつねだ」と語っている。
 それに対し、光晴の『花とあきビン』をひもとけば、「後跋」に次の文章がみつかる。「やすみたがってゐるくせに僕は、やはり、書くことを止めてしまはうとしないし、書いた本がどんなあつかひをうけるかわかってゐるくせに、なにやらの深なさけで、いぢめられてみたい底意がふりきれないといふところである」。
 一見、無関係な相違する内容と受け取れるが、文意を想像していくと、両者とも観客を楽しませたいことや、自分の作品を観客以上に楽しむのがつねであることが、みえてくる。それこそ桜井滋人の証言によれば、建前をはずした金子光晴は、日本の自由詩において自分以外の書き手をまったく認めていなかったという。やはり、偉大な表現者とは、「なによりもまず自分の芸のことを考え」、そして「自分自身に対する熱烈な愛」と「信念」を、絶対に忘れないのであろう。それゆえに、少なくない失敗談を味わい直す場合、自分自身を大いに笑える日もあれば、恥じらいと悔しさを大いに感じる日があったと思われる。
 本題に戻ろう。「たったいま、忘れてしまったあの娘の名が釣絲にひっかかって/(めったあることではありません)おもひ出せさうになってゐるところなのです。//僕がいま、それをおもひださなかったら、この世界がこれから先百萬年つづくとしても/他の誰がおもひだすことでせうか。//他の誰にしたところで、注意が疎略で、うはべの美しさしかわからないのです。/彼女がそれを打明けなくても、僕にはわかるのです。忍冬の蔓が、自然薯につづいてゐることを。」。ここでは、大切だった人の名前を忘れることの意味が告げられている。それは、取り戻せなかったら完全に失われるという精神的な恐怖が、今において凝縮されているようだ。とはいえ人は、その名を思い出せなくても相手の印象くらいは覚えているつもりでいる。けれども、表面的な美しさしか記憶に残していないケースがほとんどなのである。そんななか、詩人は、彼女の名前が消えることは大きな問題だと認めてもらいたいのだ。冬にも葉が萎まず生薬にもなる忍冬が、自生するヤマノイモのような多数でしかない貧弱な存在へと変化することに似ている、と譬えながら。
 人の全体性を背負う名前という象徴に、価値の高まりを認識するようになったのは、同時代の者の誤解にうんざりしてはいても、自作を正当に読んでくれる時代が来ることを信じはじめたからかもしれない。そのためには、余計な虚飾のついていない状態で自分の名前が伝わらなければならないと考えたのではないか。もちろん、こうした希望は大きな声でいうべきものではないし、自分でどうにかできることでもない。ましてや、「大切なこの機会を、いはれもなしに擾されたくないといふわけです。/でも、それは、ことによると、僕の人生がふたたび浮びあがれない終末へ辷りこんでゆきつつあることの錯誤かもしれません。/———でも、それは、どっちでもおなじことでせう。」のように、自然界や宇宙から眺めれば、詩歌など「どっちでもおなじこと」にちがいないのも事実なのである。
 ともかく詩人は、自分が生きている限りは、「条件がすべて適當でなければ、すこしでも邪魔が入っても/それはむづかしいのです。なにしろ一度は、不覚にも時のながれに手わたしてしまったものですから。」として、かつての勝手きままな自分を取り返そうとするかのように、忘れてしまった記憶を探りつづける。その行為だけが、幸福の実感にひたれる方法であると、覚悟したのかもしれない。それくらい自分を愛することに、最後は正直にならざるを得なかったのだろう。これは、彼らしいニヒリズムの到達点である。

(二〇一八年一〇月二五日 了)

profile

竹内敏喜(たけうち・としき)

詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)

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