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今、詩歌は葛藤する 45
〜『若葉のうた』、金子光晴その15〜

竹内敏喜

 金子光晴が、初孫をモチーフにしてまとめた詩集『若葉のうた』(一九六七)の「詩集のあとがき」には、次の一節がみつかる。「煎じつめると、世渡りが下手といふだけで、なんの取り柄もない一老人の僕が、田をつくらずに人真似の詩など、なんのたそくにもならぬと知りつつ、今日猶、あきらめもせず書きつづけてゐるふりあひから、考へてもみなかった初孫をさづかり、そのよろこびと、断ちがたいきづなのできた不安とを、痴愚をさらけて詩らしいかたちにまとめあげ、同好のたがのゆるんだ爺々婆々連に、日向ぼっこをしながら披露する目的で、一冊に編んだ」。
 この詩集は、子育てを経験した女性などにとても評判が良かった反面、現代詩の業界で先鋭的な仕事に取り組んでいる詩人や批評家からは「権威が台なしではないか」と批判的な反応があったらしい。そこで増補版を出す際に「跋」を添え、「詩が本来、人の心と心とをつなぐ言葉の芸術であり、この世界の理不尽をはっきりと見分けられるためのジムナスである以上、愛情を正常にとらへ、愛情のもつエゴイズムと、その無償性を示すことは、芸術、特にここでは詩のもつ重大な意義と僕は考へてゐる」と、つけ加えている。
 こうした芸術観は、詩人の態度としてわきまえられていただけでなく、彼の人生の歩み方においても、「愛情のもつエゴイズムと、その無償性を示す」ゆえに苦難が多かっただろうと、やはり思わざるを得ない。具体的な考察は、これまでの論考の内容で代えさせてもらうが、少なくとも筆者が取り上げた作品や、その詩に対する作者の意図を辿るだけでも、彼の述べる「愛情を正常にとらへ」という感覚が理解できるのではないだろうか。今回も同様の効果を期待しつつ、作品「若葉よ来年は海へゆかう」をさっそく挙げてみる。

絵本をひらくと、海がひらける。若葉にはまだ、海がわからない。

若葉よ。来年になったら海へゆかう。海はおもちゃでいっぱいだ。

うつくしくてこはれやすい、ガラスでできたその海は
きらきらとして、揺られながら、風琴のやうにうたってゐる。

海からあがってきたきれいな貝たちが、若葉をとりまくと、
若葉も、貝になってあそぶ。

若葉よ。来年になったら海へゆかう。そして、ぢいちゃんもいっしょに貝にならう。

 この詩を再読して、連想させられたのは、なぜか、高村光太郎の『智恵子抄』(一九四一)中の「千鳥と遊ぶ智恵子」であった。この直感の由来は解きほぐせそうにないけれど、両者を重ねて読んでみるのも一興なので、主観のおもむくままに綴ってみたい。
 まず、光晴の作品では、「絵本をひらくと、海がひらける。若葉にはまだ、海がわからない。//若葉よ。来年になったら海へゆかう。海はおもちゃでいっぱいだ。」と始められている。ここからは、孫はまだ実際の海を知らないので、その孫を魅力あふれる海へと誘わずにはいられない祖父のうれしそうな様子が伝わってくる。他方、光太郎の作品の冒頭、「人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の/砂にすわつて智恵子は遊ぶ。」からは、精神を病んだ妻を眺める夫のいたわりの気持ちと、二人の生活の来し方行く末を思う厳しさのこもったまなざしが感じられよう。当時の彼は、妻をあずかってくれている親類の家のある九十九里浜の真亀納屋という小さな部落に、週に一度、東京から見舞いのために通っていた。ちなみに光晴の場合は、孫と同居している。このように作品内容を、登場人物の設定状態により表面的に捉えるなら、両者の方向性はまったく違うといえそうだ。
 ただし、智恵子が自己の世界にこもって遊んでいることは、実は、絵本の海の状態に似ていないこともなく、また、若葉に実際の海がわからないことは、成人と比べ精神的に足りない面があることに通じるだろう。ならば、そうした相手をみつめるそれぞれの詩人の心境において、例えば、人の生死に対する不安定さが痛切に意識されていたとしても、おかしくはない。つまり、光太郎には妻の治癒の見通しの無さとして、光晴には孫の幼さと自分の老齢という隔たりの絶対的関係においてである。こうして作者の立場を中心にして探ってみれば、一種の共通点がみつかるとも考えられよう。
 次に、「無数の友だちが智恵子の名をよぶ。/ちい、ちい、ちい、ちい、ちい——/砂に小さな趾(あし)あとをつけて/千鳥が智恵子に寄つて来る。」のように光太郎がみつめる光景と、「うつくしくてこはれやすい、ガラスでできたその海は/きらきらとして、揺られながら、風琴のやうにうたってゐる。」と描かれる光晴の空想による景色を比較するなら、何がみえてくるだろう。大げさにいうと、両者における人の生死への不安という意識が、何に斬りつけ、返す刃で自己の何を切り裂いたかが、感じられはしないだろうか。ひとまず、光太郎は妻と親和する自然の存在を特化しようとしており、光晴は嘘を並べてでも孫の興味を引こうとしている。この行動は、二人とも、愛する人を傷つけないもので包み、大切に守ろうとする態度である。それは、外部を排除するとともに、こちらの愛情に対する相手からの報酬などは気にもかけず、対象との距離を見定めることのようだ。
 そして光太郎が、「口の中でいつでも何か言つてる智恵子が/両手をあげてよびかへす。/ちい、ちい、ちい——/両手の貝を千鳥がねだる。/智恵子はそれをぱらぱら投げる。」として、妻と千鳥が交歓する様子へと作品を展開させるように、光晴も、「海からあがってきたきれいな貝たちが、若葉をとりまくと、」と継ぐことで、若葉と海のきれいな貝との交歓への期待に心を躍らせている。これらの、人間以外の生物とコミュニケーションをとる妻や孫の姿は、それぞれの語り手の目には、しだいに交流を過熱させていくようにも感じられただろう。まさに、「群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。/ちい、ちい、ちい、ちい、ちい——」と光太郎は受けとめ、「若葉も、貝になってあそぶ。」と光晴は夢想を広げている。
 だが、これ以降の作品末尾までの部分については、両者の締めくくり方は、まったく異なってしまう。光晴の方では、「若葉よ。来年になったら海へゆかう。そして、ぢいちゃんもいっしょに貝にならう。」とされ、自分が来年まで健康であったなら、幸福な未来が訪れることを疑っていない。むしろ、孫といっしょに海で戯れようと、貝になった自分を想像した時点で、すでに楽しみだけなら成就しているといえよう。それに対し光太郎の方は、「人間商売さらりとやめて、/もう天然の向うへ行つてしまった智恵子の/うしろ姿がぽつんと見える。/二丁も離れた防風林の夕日の中で/松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。」と、どうにもならない現実を前に述懐するしかない。今の彼には、なすべきことがわからないだけでなく、未来を待ち望むまなざしが閉ざされてしまっている。あえて言及するなら、光太郎には、自分が千鳥になろうとする選択肢は想像もできなかったにちがいない。これは、二人の資質の決定的な違いだけによるのではないだろう。
 その違いという観点を解く鍵にもなりそうだが、朔太郎については「言葉の音楽性をありきたりな雅語にむすびあわせようとせず、口語による自由詩の重要な要素として探求した」と指摘し、光太郎については「やや誇張的な正面きった表現で、人道主義的正義感に裏付けされた調子高い詩」を書いたと、光晴は言葉を残している。また、森乾による『父・金子光晴伝 夜の果てへの旅』(二〇〇二)を開くと、「つき合っていた知人が『詩人なんか』とふと口にしたのを耳にすると、怒って直ちに交際を止めてしまった。萩原朔太郎、高村光太郎につぐ昭和の詩人であることを認められていると、晩年自負して、息子の私に語ったのを昨日のことのように思い出せてならない」との記述があり、世間で一般化されている評価基準を、意外にも尊重する光晴の様子が窺える。
 ところで、ここまでの読解をふり返ってみると、両者とも表に出そうとしなかった事象について、逆に明瞭に浮かび上がらせていると思われてきた。人の生死に対する不安定さの意識というモチーフを、あらためて確認してみれば、光太郎は天然の向こうへ行ってしまった智恵子と同じ位相に入ろうとしない自己を知っており、光晴は自分が来年まで健康であることに本当は自信がないようでもある。その理由として、光太郎は磨き上げた自我を崩すことを怖れていたからだろうし、光晴は過去においてあまりに不義理や悪行をなしているので、自分には不幸しかやってこないと考える習慣がついていたためかもしれない。以上のように捉えると、今回の両者の詩は、作品構造的に類似性があると同時に、作者の内面にも親近するものが秘められている気がしないこともない。譬えるなら、「人道主義的正義感に裏付けされた調子高い詩」という評価を、「愛情を正常にとらへ」という方向から光晴流に歪めてしまえば、詩人の態度としてはかなり近づいてくる。金子光晴という人物が、ヒューマニズムの詩人と見做されることが多いのは、そのためだろう。
 と、このように書き連ねてきてから、なんとなく『金子光晴全集13』収載の『文学的断想』を開いてみると、驚いたことに本人の発言として次のものを見出した。
 「『智恵子抄』については、いま詩の世界では、一般に甘い作品だといわれていますが、ことによるとそれは甘いなんてものじゃないのではないかと思います。そうじゃなくて、あれはむしろ逆に、思いきって書いたものじゃないか、勇気のある表現じゃないかと思うのです。詩人たちの大向うをあまり考えないで書いた作品で、あるいは甘いとみる人もいるかもしれませんが、あの辺に案外に、むしろ本領があるのではないか、そんな気もします。ことに光太郎のような立場にあった詩人には、ちょっと書きにくいことをかいたのです。はじめから甘い詩を書いている人ならなんでもないことですが。(略)僕個人とすれば『若葉のうた』が、それにあてはまるかもしれません。なんと言われても、それはやはり自分につながるものなんです。高村光太郎の場合の『智恵子抄』も、それをマイナスと考える人は、ちょっと考えが浅いんじゃないかと思います」(『金子光晴全集13』より)。
 この文章の初出は、一九六八年八月刊の「詩と詩人 Ⅰ」となっている。これは『若葉のうた』の発行と同時期であり、光晴は孫に向き合う詩集に取り組むことで、結果的に光太郎を再発見していたと考えられそうだ。なお、『文学的断想』には他にも重要な発言が多く、参考までに二カ所ほど、初出を示しながら挙げておきたい。
 「日本の詩の貧しさの根元は、人間の信頼と人間への不信の不可離な関係を認識しないことにあるのではないか。所謂、くだいてもっと具体的に言えば、生活派とも称すべき連中の愚鈍さと、芸術派という人達の空しい虚栄心とのあいだに、釣合いがとれていないためではないか。詩は、要するに生きもので、ある期間で凋落し、死んでいっていいものなのに、日本の詩は『羽化登仙』ばかりをねらっている。詩は、なによりも、現にピチピチと生きていなければならないのに、日本の詩は、贋金のように沈んだ色をしている」(一九五二年七月「現代詩の実験」初出)。
 「僕は、詩に托して、言いたい三味の放言や、憤懣のはけ口、警告や、批評や、ほかの方法ではちょっと表現しようのない『真実摘発』や、諷喩を、詩の道からは第二義的なことかもしれないものを第一義にもってきて、詩芸術を第二義にしてみせることで、アマチュアの本分を立て通そうというわけである。詩とは第二義な僕の雑言癖は、平凡なその日その日の生活の安穏をおびやかす強力なシステムや、ブルドーザのような権力にむかって発する悲鳴に類するものだから、それなりに正当な根拠をもっているのだということをわかってもらいたいものだ」(一九六五年三月「文学」初出)。
 前者で主張されている内容を、やや噛み砕いてみる。まず、生活派に「人間の信頼」を、芸術派に「人間への不信」を代表させ、その愚鈍さと虚栄心との間に釣合がとれていないことが、日本の詩の貧しさにつながるという。そうではなく、詩は「ピチピチと生きていなければならない」わけだから、人間における信頼や不信は二義的なものでしかなく、作品としての詩は、生命感の輝きが感受されている間だけ本物と認められるのだ、といった観念が提出される。つまり、どんな人物の人生観や主義主張よりも、本物の生命に満ちた輝きの方が重要だということを、詩人なら理解しなければならないとの主張だろう。この文章が書かれたのが、大川内令子との婚姻許可をその父親から得たころだと思うと、なかなか示唆的で、光晴の気持ちの高揚感が伝わってくるようだ。
 また後者は、前者の一三年後に書かれているが、偶然にも令子と二度目の協議離婚をしたころに当たっている。それにしても、「平凡なその日その日の生活の安穏をおびやかす強力なシステムや、ブルドーザのような権力にむかって発する悲鳴に類するものだから、それなりに正当な根拠をもっているのだということをわかってもらいたい」という彼の言葉は、疲れきった人間の発する本音だとしても、読者に同情を求めている点に、光晴の気力の衰えを感じないではいられない。とはいえ詩人はその後も詩を書き続け、この二年後には、『若葉のうた』が誕生するのである。

 若葉がちいちゃいときは、乳母車で
近くの小路を押してあるいたが
そのたのしさが忘られず、
妹の夏芽のうまれたので、

 早速、物置から古い車を出して
埃をはらひ、掃除をしてゐると、
姉妹のママがみつけて、飛んできて
『お爺ちゃま、それはいけません』と言ふ。

 『何故』『若葉の時とはちがひます
車がふえてあぶないし、それに
お爺ちゃまもとしをとりました』
 いちいちそれはもっともなので、

 口惜しがっても自信がないので
車はもとに戻して、老人はしょんぼり。
最後の夢ももぎとられた足元に
すがれた垣のじゅず玉が揺れてゐた。

 作品「路」を引用した。この「たのしさ」の回顧と、老人である自分を自覚しての「しょんぼり」感は、まさに平凡な光景だ。空想による景色は入る余地がない。このとき光晴は、病んだ智恵子をみつめる光太郎の心境にさらに近づいていただろうか。確かに、「最後の夢ももぎとられた足元に/すがれた垣のじゅず玉が揺れてゐた。」との最終行は、「松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。」とそっくりである。だが、このときの彼だからこそ、なすべきことがわかり、孫にとって良き未来を待ち望んだのも事実であろう。

(二〇一八年六月一二日 了)

profile

竹内敏喜(たけうち・としき)

詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)

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