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今、詩歌は葛藤する 41
〜『非情』、金子光晴その11〜

竹内敏喜

 一九四八年以降、光晴の生活に大きな変化が起こる。それは大川内令子との出会いによるものであり、詩集『蛾』を取り上げた際に少しふれたが、以下にその後の二人の関係を簡潔にまとめてみる。彼女の父は上海陸戦隊を指揮した元海軍中将の大川内伝七、母の八重は読売新聞二代目社長の高柳豊三郎の娘で、敗戦までは社会的地位も高く、裕福な家庭であった。しかし、父親に絶対的権威のあった家庭の雰囲気に反発するかのように、令子は文学少女になっていく。一九四八年三月、尊敬する詩人の金子光晴を、友人の紹介で自宅に訪れる。彼女の美貌と、男に従順な性格を気に入った光晴は、頻繁に会うだけでなく、一九五二年五月には彼女の両親を佐賀県に訪れ、結婚の許可を得る。この間、女として成熟していなかった令子を、性的な歓喜を得られるように根気よく導く姿が、彼女からの聞き書きによる江森陽弘の著『金子光晴のラブレター』(一九八一)に描かれている。
 二人の婚姻届は一九五三年三月に提出。だが、一二月一六日に令子には無断で協議離婚され、二二日に三千代との婚姻届が出される。これは闘病生活を続ける三千代をいたわっての光晴の行動であったようだ。そして一九五八年二月に令子の父が亡くなると、娘の行く末を心配していた両親の気持ちを斟酌して、その年の一二月に光晴は無断で三千代との協議離婚を出し、二七日に令子との婚姻届を提出している。やがて、この事実が露見したためだろうが、一九六五年三月には令子との協議離婚が届けられ、三千代との婚姻届が出されるだけでなく、光晴は森家に入籍することになる。これが光晴のはからいなのか、吉祥寺の家族のおこなったことなのか、詳細は筆者には不明だ。
 戸籍上はともかく、光晴はその生涯の最後まで二つの家を行き来することになる。当時の三千代が身体に障害を持っていただけに、看護も含めて吉祥寺にいることが多かったようだが、機嫌を取ろうといつも高級なおみやげを持参して、月に一度は令子の家にも寄り、数日を過ごしたという。しかし最晩年は、仕事が多忙だったこともあって、ほとんど訪れていない。結局、光晴と三〇年近くも妻となり愛人となって生活を共にした令子は、彼のことを「やさしい人」と表現し、影響を受けるのを避けるため光晴が亡くなってからその著作を読んだという三千代は、「負けたわ」と感想を残している。この二人のつぶやきの差異には、光晴との関係が正確にあらわれているように思われてならない。
 詩集『非情』は一九五五年に刊行されているので、時期的にみると、神経質になっていただろう二人の女性に、多くの言い訳や嘘をつかなければならなかったころに書かれたと推測される。その自分の態度を非情と見立てたわけではないだろうが、非情にもなれる自己をまたもや認識したとき、二人に対してというよりも、すべての人間に対して自分がそうであることを決定的に意識したのではないか。詩集の「序」には次の言葉がみえる。
 「この詩集のもつ反意は、はつきりしてゐない。五十何年、人間の仲間でゐながら、僕は、人間にうち込むこともできなければ、あいそづかしもできない始末。むしろ、呆然とながめて、今日まで来た。人間は、あまりしつこく眺めるものではなささうだ。僕の祖先を羞ぢるやうに、みてゐるあひだに人間は、かたちがくづれ、變質し、偽装をこらして、かくれ廻らうとする。僕の反意は、その間にいつのまにかそらされてしまつてゐる。正直なところ、僕は迷つてゐるのだ。(略)」。
 この「序」だけを読むと、詩人は詩作のことではなく、二人の女性を頭に浮かべて記しているのではないかと、勘ぐりたくなる。とりわけ、詩集『鮫』の「自序」を想起させる「反意」がキーワードになっているだけに、反対する意志のようなものがそらされてしまっているとは、ある種の変化をあらわしていると感じられる。時代の大きな変化はあったにしても、それ以上に、自我の働かせ方そのものの道筋を見失って、生きる実感を得られる居場所がみつけられなくなっていたのだろうか。それを助長するかのように、女性二人に板挟みされる生活を選んだわけだが、見方によれば、生にこだわろうとする苦肉の策とも捉えられる。けれども、やはり確固とした足場はみつからず、「僕は迷つてゐるのだ」と認めざるを得なかったのだろう。
 こうした経験も、詩人としての展開という点では、前進につながったといえそうだ。読後の印象だけで述べるなら、『非情』の作品はかなりていねいに推敲されており、だからこそ、こじんまりとした仕上がりになっている気もする。また、本人にとっては、迷いの自覚が消せないことに、そうとうの不快感や違和感が残ったとも考えられよう。その結果、後年にまとめられる小説『風流尸解記』(一九七一)において、令子を女主人公のモデルとし、新しい時代の女(死への親愛感など)である彼女に惹かれながらも繰り返し拒み、幻想のなかで殺して、ついには彼女から離れていくといった筋書きを選択したようにも想像される。ともかく、相手を殺すことは、他者に奪われないための本気の独占欲であるとともに、自己にこびりついた迷いを完全に振り払う方法であったと理解できる。逆にいえば、鳥(光晴)は古巣(三千代)に帰ることを絶対的に選んだのであり、そこに落ち着くしかなかったのだろう。だからといって、自分の死の日まで、現実の令子との関係を手放すことはなかったあたりに、老いてなお粘り強い光晴の自我を知るべきかもしれない。
 作品「ある序曲」を挙げる。

大地は四六時中、次々に來る人でたべよごしの片附かない居酒屋のテーブルのやうなものだ!
皿を片づけながら、皿をはこぶ。糞蠅だけがおなじ奴だ! どんよりして、唸を立てる太陽からばら撒かれた黒い散彈。

蠅は、僕の手の中にとまつてぢつと待つてゐる。僕が腐れはじめるのを。
僕より先に腐つたもの、あとから腐るものに挟まれて、あゝ、お互ひは見知りあふ方途すらない。

すでに、僕らは孤獨でさへありえない。死ぬまで生きつづけなければならない。ごろごろいつしよに。
そして、眞似なければならない。することも考へることも、誰かにそつくりゆづりわたすために。

──生きにくい世の中だつたよ。僕には。埃の立つ時代の埃のなかで、僕は言ふ。
──なかでも戀情ほど、僕を狼狽させたことはない。ぬけばとめ途もなく水の走る栓を、しらずにぬいてしまつたやうに!

 タイトルからも伝わるように、この詩人は何度でも新しく始めようとする。しかしながら、彼の周囲はもはや片づくことのないゴミだらけだ。それだけでなく、今回は、詩人自身が腐るのを待っている蠅まで登場する。こうした現実を認めるしかないと観念したとき、詩人は、「僕らは孤獨でさへありえない」と意識の方向を転換してみる。「死ぬまで生きつづけなければならない」わけだから、しかたなく「眞似なければならない。することも考へることも」と諦めてみて、それが単に「誰かにそつくりゆづりわたすために」おこなうことだと感じると、新鮮さのない前途を知り、再び虚無的な気分へと陥ってしまう。ここにおいて語り手は「生きにくい世の中だった」と感慨を語るが、期せずして、「戀情ほど、僕を狼狽させたことはない。ぬけばとめ途もなく水の走る栓を、しらずにぬいてしまつたやうに!」と、自己の思い出のなかに新鮮だった体験を探り当てることになる。
 もう若くはない表現者にとって、過去の記憶を自在に描くことは、もっとも正当な方法である。写実といっても、目の前にある今を表現することだけが、新鮮さの担保なのではない。かつて「栓を、しらずにぬいてしまつた」ことを、ふいに回想し、いきいきと描くことで、はじめて味わえる感覚があるのだ。たいていの者が疑うことなく頼っている、この平凡な方法を自覚し、真剣に取り組むことで、それまで積み上げてきた価値観の表と裏が似ていると気づくことだってあるだろう。例えば、鬼はキリストに成り代わり、どんな女にも歴史上の女傑の表情が浮かび上がって見えてもおかしくはない。これは、大いなる発見だったのではないか。そして光晴にとっては、実際には失敗ばかりだっただけに、もっとも活躍したかった場所として、恋愛の場面がそびえることになっただろう。心の奥のその場所が、後悔に染まっていたなら、触れると痛む傷が持続していたはずだ。三千代に出会うまでの彼は、相手に対するやさしい心を持ってはいても、女性の気持ちなど忖度せず、わがままな行動でふりまわし、あきれられ、見捨てられることが多かったらしい。

 革手袋を裏返すやうに
ずるりと皮膚をひん剥かれて、
血管がのたうち
神経が裸になつた掌。

風がいたい。
空気がひりひりする。
薬も塗らず、繃帯もしない
赤身の掌は、

鋤ももてない。
ペンももてない。
なまあつたかい
大つぶな雨が、

ふすぼりながら
霰彈のやうにはぜる。
この刑罰をみつめてゐるのは
おなじやうに赤裸なこころ。

いつなほるのだらう?
いつ?
うす皮でもいゝ。
皮ができるのは?

この掌のうへに
玉のおもさを秤り
この掌で
ほかの掌を愛撫できるのは?

 「赤身の詩 —東京の廢墟に」という作品を引用した。もちろん、戦後すぐの東京の痛々しい様子を前にして歌われていることに間違いはないのだが、それ以上に、辛かった恋愛体験を戦争に重ね、終わっても消えない苦しみを告白していると受けとめられないだろうか。とりわけ、三千代と美青年の恋という一九二八年に起こった事件については、そのときの嫉妬心に詩人がいつまでも悩まされ続けたことは、彼の弟子らの回想からも明らかだ。この作品の初出は一九五三年一一月の『ポエトロア』だから、令子との婚姻届を出した年であることを思うと、「この掌のうへに/玉のおもさを秤り/この掌で/ほかの掌を愛撫できるのは?」との詩句には、三千代という「玉」から、令子という「ほかの掌」へと逃避できるだろうか、との賭けの気分が込められていると読むことも可能である。また、「いつなほるのだらう?/いつ?/うす皮でもいゝ。/皮ができるのは?」の部分も、このときだから、切実さを増していたのではないか。「序」における「僕は迷つてゐるのだ。」の本当の意味は、このあたりにあると、考えてみたくもなる。
 ここで視点を変え、夫に対する晩年の森三千代の気持ちをみてみたい。「金子光晴の周辺」として『金子光晴全集』の月報に連載されたものがあり、松本亮の問いかけに一五回にわたって答えているが、光晴の自伝的小説には事実でない内容が含まれていることもわかって、興味深い対談だ。これは、詩人の没後におこなわれたこともあり、松本の問いには、今のうちに記録に残しておきたい真相を、やや強引に引き出そうとしている面がないこともない。それに対し、三千代は冷静に語っている。例えば、「戦後になって、金子さんに女性問題がおこりますけれども」との問いに、彼女はしんみりと答えている。
 「やっぱりショックでした。金子が寛大な人だったもんですから、私自身もずいぶん申しわけないいろんな異性問題を引き起こしていますけれども、自分自身がそういう目にあってみると、やっぱりショックがひどかった。なんとかして金子を取り戻したいと思って、一生懸命になった。ずいぶん一生懸命になったんですけれど、結局は大人げないと思いましてね。相手の女の人の気持も尊重して、そして私自身も、ということは、私そのとき病気になっていたもんですから、私自身も身の立つように考えて、なんとか結末つけなくちゃいけないと思って努力しました」。
 さらに松本は、「一時期は、別れることになるかもしれないという気持ちも」と尋ねると、三千代は次のようにきっぱりと言葉を続けている。
 「とってもその点は迷いまして、別れたほうが金子のためには幸せなんじゃないかしらと思ったこともありました。(略)自分がそのとき病気でなかったら、はいさよならといって、すっぱりそれで別れられたかと思って冷静になって考えてみますと、私は断じて失いたくなかった。金子もそういう私の気持はよくわかっていてくれましてね。死ぬまで私のところにいてくれましたもの。死ぬときは私の寝ているこの部屋の、その寝床で死んじゃったんです」。
 さすがに、長い間、彼と苦楽をともにしてきただけに、三千代の話すこれらの言葉には、読み手の心を打つものがある。彼女という強い一点があったから、五〇歳以降も光晴は、自我のおもむくままに行動できたのではないか。寝たきりの三千代の宝石を持ち出しては、質屋で金銭に換え、令子や弟子らと何度も宴会を楽しんだことが『金子光晴のラブレター』には書かれているが、金銭面においても、光晴と三千代の関係には他人に窺えない独特のものがあったと思われる。生きる実感を得られる居場所は、実は、そうした二人の関係のなかにこそ、しっかりと根づいていたのだろう。「孫たちをかわいがりまして、とっても孫好きでしてね。それにたくさんの方々が、いまも金子先生、金子先生といって慕っていてくださるんですから、金子光晴としては、なにも言うことはないんじゃないかと思いますが、どうでしょうか」と、三千代は対談を締めくくっている。

(二〇一八年三月七日 了)

profile

竹内敏喜(たけうち・としき)

詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)

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