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今、詩歌は葛藤する 36
〜『落下傘』、金子光晴その6〜

竹内敏喜

 『落下傘』は一九四八年に刊行されている。前詩集の『鮫』が一九三七年に出ているので、ざっと一一年後に当たる。その「跋」をみると、「この詩集は、日本と中國の戦争が始まつてから、終戦十日ほど前までに書かれた詩のうち、比較的前期の作をあつめたもの。すべて発表の目的をもつて書かれ、殆んど、半分近くは、困難な情勢の下に危険を冒して発表した。(略)この詩の役目は一見終つてゐるやうにみえて、まだまだ終つてゐないとおもふ。この詩の苦難も、又、これからの事かもしれない。(略)この詩集は僕の背柱骨だ」と記されており、一人の詩人を支える思想のその中心部分の込められた、気概にあふれたものと受けとめられそうだ。
 もちろん、この気概は、戦時中の世の中のあり方全体に対する不満によって、はからずも噴出したものだろうけれど、空襲や疎開やわが子への召集令状などの体験が、彼の身心にとって苛酷であったこと以上に、日本人の性質への不信感が、どっしりと詩人の精神に根をおろした事実に起因していると思われる。そうした戦中の光晴の心情がわかる部分を、『詩人』から抜き出してみる。
 「戦争中の新聞雑誌の報道や論説は、いつでも眉唾ものときまっているが、他の言説が封鎖されていると、公正な判断をもっているつもりの所謂有識者階級も、つい、信ずべからざるものを信じこむような過誤を犯すことになる。人間は、それほど強いものではない。実際に戦場の空気にふれ、この眼で見、この耳で直接きいてこなければ、新聞雑誌の割引のしかたも、よみかたもわからなくなってくる。そこで、僕は、この年(一九三七)の十二月二十幾日の押しつまった頃になって、森をつれて、北支に出発した。渡航はなかなかむずかしかった。文士詩人ということは伏せ、むろん、報道員などの肩書はなく、洗粉会社の商業視察の許可をえて、神戸から、上海にわたった。(略)凄惨なものがわだかまり、それが戦線の方につづいていた。現地から帰ってくる人間は、恐怖に憑かれ、人間の相貌を失うことで、別の弱い人間性を発揮していた」(『金子光晴全集6』より)。
 「戦争がすすむに従って、知人、友人達の意見のうえに、半分小馬鹿にしていた明治の国民教育が底力を見せてきだしたのに、僕は呆然とした。外来思想が全部根のない借りもので、いまふたたび、小学校で教えられた昔の単純な考えにもどって、人々が、ふるさとにでもかえりついたようにほっとしている顔を眺めて、僕は、戸惑わざるをえなくなった。古い酋長達の後裔に対して、対等な気持ちしかもてない僕、尊厳の不当なおしつけに対して、憤りをこめた反発しかない僕は、精神的にもこの島国に居どころが殆どなくなったわけだった。(略)この民族をうごかしているものが、もっともっと緊密で、底ふかい、国土とむすびついたものにちがいないということにやっと気がつき出した。その頃から、僕は、日本思想というものを勉強しようとおもい立った」(『金子光晴全集6』より)。
 戦中における彼の詩作品の発表は、一九四二年七月の『中央公論』が最後で、それからはジャーナリズムから遠ざかるようになっていた。とはいえ、非協力・反戦の意識をもって、一億二心の決意でこつこつと書き続けていたのである。しかし戦争が終わると、日本人はすぐさま民主主義者に一変した。その様子を前にしたとき、光晴は、「世界の信義への期待は裏切られ、人間の本質に根ざした不信や、憤りが、憎悪が、ふたたび将来のない人類のゆく先に対する絶望感となって、僕を蝕いはじめた。そして、僕には、個人しか信じられず、団結した人間の姿に、自然悪しかみることができなかった」(『金子光晴全集6』より)と、やりきれない思いの感想を述べている。
 こうした日本人という団結した自然悪に、怒りや絶望をおぼえ、光晴はやがて虚無的な気分に陥っていく。その途上にある作品として、一九四七年一月の『鱒』創刊号に寄せた「風景」を挙げておきたい(創作されたのは一九四二年九月)。

  一
をとこのこゝろの淋しいながめよ。

をんなのこゝろのなほうらぶれた眺望よ。

みるかぎり蕭索として、うす埃をかぶつたそのあたり
弱日さす千本格子、
物干しのそとの鰯雲。
貧寒やすきま風。
人情の茶しぶ、
泪でじくじくな眼。

胸にたつ小骨のいたみ、おどおどと心いぢけた女たち、
酔狂に女を殴る男たち。
あるひは身や家の外聞を怖れ
猜疑の目で女を監視するもの
——右も左も、そんなけしきばかり。

人の愛情は逃げ水のごとく
ゆきくれたかなしい雲、
うるみいろの曇天のしたの
いばらと萩の根にわけ入る。

  二
すねに毛のない岩壁は訓を垂れる。——「無一物を尊べ。」
榾火でパチパチいひながら天来の聲は語る。——「形骸をゆめゆめ信ずるな。」

月の助。
うち歎く杪をかすめて、なほ
諦観が
もののあはれさがさまよふ。
蘭や菊のにほふ昔がたりを人は、千年くり返す。
この國でもつとも新鮮なものは、武士道である。

掃墨。
苔寂びた庭。
紬織——高節の気風。

秘事秘傳、雲烟のなかの詩人たち。
はら藝をみせる政治家たち。

おもひいれ、七笑ひ、咳払ひ、しかつめ顔。
さはり、繊細な小手先のからくり。
おに火のもえる水田と
ネオンサイン。

信淵とルツソオ。

ぜげん。奉公人、乱破(らっぱ)、神憑り。

鴉のやうに巷にあふれる学生どもは、酒くせと、世わたりをならひおぼえ、
嫁入り前の娘らは、床花を活け、茶の湯の作法に日々をくらし。

 この作品を読むと、対象の捉え方が再び形式的になっているのがわかる。けれども、さまざまな具象を眺め、経験したうえで、抽象化され整えられた観念は、形式化されても現実感を疎外するわけではない。彼が敵視した団結という自然悪の正体を、探り出すために必要な試みであり、団結という観念にふさわしい表現方法として、受け取るべきだろう。少なくとも、世界大戦を機にみえてきた、日本人という民族の成り立ちの歴史的背景の意味を、作品化しようとしている。それを象徴するのは、「この國でもつとも新鮮なものは、武士道である。」という一行ともいえよう。ちなみに一九四五年五月に執筆された作品「寂しさの歌」には、「この國では、/さびしさ丈けがいつも新鮮だ。」とある。後者は、敗戦間近に執筆されているだけに痛切な味わいがこもっており、この部分だけを比較しても、戦時下での状況の違いがなまなましく伝わってくる。ところで、この二作品を比べながら読解を進めていくのも意義がありそうなので、以下でも続けていきたい。
 「風景」の始まりの部分の「をとこのこゝろの淋しいながめよ。」と「をんなのこゝろのなほうらぶれた眺望よ。」という明確な提示は、光晴の真面目さのあらわれとも感じられる。「寂しさの歌」の冒頭をみると、「どつからしみ出してくるんだ。この寂しさのやつは。/夕ぐれに咲き出たやうな、あの女の肌からか。/あのおもざしからか。うしろ影からか。」となっており、内容的な類似性を指摘できよう。あえて述べるなら、前者が男女を客体として認識しているのに対し、後者は男の主観的な立場で、寂しさの原因を女の風情に探っている。この点から、「なほうらぶれた眺望」への意識の高まりが、後者成立のきっかけになっていると想定しても良いかもしれない。
 つづいて、「みるかぎり蕭索として、うす埃をかぶつたそのあたり/弱日さす千本格子、/物干しのそとの鰯雲。」と展開され、その後も「——右も左も、そんなけしきばかり。」の個々のものが示されていく。こうした特徴に注目すれば、「風景」という詩は景色の羅列で終始しているともみえ、また、日本らしい精神として「無一物」「諦観」などが、これも景色の一部分となって添えられている。さらに後半では、「おもひいれ、七笑ひ、咳払ひ、しかつめ顔。/さはり、繊細な小手先のからくり。/おに火のもえる水田と/ネオンサイン。」のように、さまざまなシンボルの飛び交いだけで、見事に空虚感をあらわしている。ここまでくると、対象への作者の嫌悪感は、すでに近親憎悪に近いとも勘ぐりたくなるほど丁寧な探りようだ。
 そうしたなか、「この國でもつとも新鮮なものは、武士道である。」という断定がみつかるわけだが、もしも戦時中にこの作品を味わったとするなら、「武士道」という言葉は、作者の意図した皮肉となるよりも、暗い生活のなかの一点の光のような詩的な効果を発揮したのではないか。つまり反戦ではなく、今の貧しい生活を変えるための原動力として、戦う意欲の御旗に利用されてもおかしくはない気がする。なぜなら、「新鮮」という響きに、日本人はあまりに魅力を感じ、逆らえない体質があると考えられるからだ。光晴はそのことも知っており、同様な表現を他の作品で反復して、昇華させているようだ。
 この自覚において「寂しさの歌」を眺めると、次のような卓抜な発想に、詩人の成長がいっそう感じられる。「しかし、もうどうでもいゝ。僕にとつて、そんな寂しさなんか、今は何でもない。//僕、僕がいま、ほんたうに寂しがつてゐる寂しさは、/この零落の方向とは反對に、/ひとりふみとゞまつて、寂しさの根元をがつきとつきとめようとして、世界といつしよに歩いてゐるたつた一人の意欲も僕のまはりに感じられない、そのことだ。そのことだけなのだ。」。この恨みの情の裏には、「遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戦争をもつてきたんだ。/君達のせゐぢやない。僕のせゐでは勿論ない。みんな寂しさがなせるわざなんだ。」といった考察がふまえられており、この展開方向をみると、「個人しか信じられず、団結した人間の姿に、自然悪しかみることができなかった」との感覚がよく伝わってくる。とはいえ、一人として信じられる個人が身近にいなかったと、作品では告白されているわけで、この時期、いかに精神的に孤独であったかがわかる。
 もちろん彼に、気を許せる友人がまったく存在しなかったわけではない。後年に書かれた「友だちは昔のこと」(「日本経済新聞」昭和四一年五月一四日)には、「苦労をうちあけて相談したり、苦しいときに助けてもらったりするために、友だちをもとうとはおもいません。友だちが迷惑をかけても、裏切ってもあまりおどろかないのは寛大のせいではなくて、それを不信あつかいする一般モラルに対して懐疑的だからです。(略)いちばん心をゆるした友だちは山之口貘さんでした。それは、あの戦争中に、ふたりだけが戦争のわる口が言えたからです」(『金子光晴全集8』より)とある。
 余談だが、山之口貘の遺稿詩集『鮪に鰯』(一九六四)に付された光晴による「小序」は次のようなものだ。「僕には、詩というものが、貘さんのような詩以外、あんまりよくわからないので、なにか書くと、ひいきのひき倒しになりそうな心配があるのだ。貘さんの詩は、まずまちがいない。安心してよませてもらえる、それは、貘さんが、じぶんの詩の一つ、一つ、をいかに大事にして、鼻のあぶらをつけたり、黄ろいツヤぶきんをかけたりしていとおしがっているからで、ゆめゆめ、勲章をもらう道具にするような量見がないからであろう。(略)僕としても、まだこれから生きているかぎりは、歯ぎしりのような詩や、けいはくな『売り詩』を書かねばならぬハメになるだろうが、ほん音は、『もう、書くことはない。貘さんがいてくれれば、それでいいじゃないか』と言いたいところなのだ」。現実の生活では、いわば多くの変わり者の知人に取り巻かれ、それぞれの個性を受け入れられたからこそ、「風景」や「寂しさの歌」のような作品を、単なる観念の連なりに終わらせずに、日本人の精神の歴史として、哀れにも整えられたのだと考えたい。
 また、さきほどの「寂しさの歌」の末尾の表現は、詩集『鮫』の作品「おっとせい」の以下の一節を容易に想起させる。「だんだら縞のながい影を曳き、みわたすかぎり頭をそろへて、拝禮してゐる奴らの群集のなかで、/侮蔑しきったそぶりで、/たゞひとり、/反對をむいてすましてるやつ。/おいら。/おっとせいのきらひなおっとせい。/だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで/たゞ/「むかうむきになっている/おっとせい」」。自我意識がぷんぷんしており、一九三七年四月の『文学案内』に掲載された点から考えても、戦争への抵抗に張り合いがあったころの作品だといえるだろう。しかしこちらも、「世界といつしよに歩」くとの本人の意欲により、関心は薄れ、乗り越えられていく。
 この「世界」とは自然現象のことと思われるが、怒りが寂しさになり、終戦後には虚無感となったとき、思いがけなく、金子光晴は抵抗詩人としてマスコミに注目される。そして東南アジアやヨーロッパ放浪以降、戦後までに書きためられていた作品は、次々に三つの詩集にまとめられ、その豊かな内容を世に問うことになった。一方、定期収入を得ていた化粧品会社が一九四七年には営業不振に陥り、再び原稿料に頼らざるを得なくなる。

(二〇一七年一二月七日 了)

profile

竹内敏喜(たけうち・としき)

詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)

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