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今、詩歌は葛藤する 35
〜『鮫』、金子光晴その5〜

竹内敏喜

 鮎川信夫は、吉本隆明と大岡信との近代詩史を討議する鼎談のなかで、「戦争期は問題にならなかったですね、金子さんは。それはもっとつまらない群小詩人よりも問題にならなかった。つまり『新領土』系で言えば、さっき言った陥没したジェネレーションの連中よりも問題にならないと思う。やっぱりそういう位置にいたんだと思うんですよ、彼自身が。だからほとんどの詩は戦後になって浮上してきた。ぼくは『鮫』だったかな、もちろん名前は知ってたし、詩集も見たことありますけどね」と述べている。
 また、吉本隆明から、系譜的にみると金子光晴は歴程に入るのだろうかと尋ねられると、「そうでしょうね、結局。だけど、日本じゃやっぱり大詩人の部類じゃないかなと思うけどね。つまり、へんなところで目立たなかったっていうだけでも利巧だと思う。初めっからまあ世の中ってのを、かなり斜めに見てたんだろうね。だから詩なんかやったんだろうと思う。それには詩ってのはかなり、まあ日本の社会の中じゃ便利な媒体だったってことじゃないかなあ」と応えている。
 この鼎談は、明治初年から昭和二〇年くらいまでの詩をめぐり、一九七五年に隔月で四回に分けておこなわれ、『現代詩手帖』に順次掲載された。奇しくもその年の六月三〇日に、金子光晴は気管支喘息による急性心不全により逝去しているが、彼の死を知っての発言ではなさそうだ。鮎川の指摘によると、戦中の金子の活動はほとんど目にふれなかったことがわかるだけでなく、金子の特徴として、一般向けの場でも玄人向けの場でもうまいと思わせる作品を創り、それでいて不必要に目立たなかったことが挙げられている。この観点は、弟子筋の詩人の回想が金子べったりであるだけに、同時代の証言としてなかなか興味深い。なお、金子本人によれば、歴程のメンバーとの交流はあったものの、歴程グループには草野心平が勝手に名前を入れたとのことで、やや不快そうな発言を残している。
 さて、詩集『鮫』は一九三七年に刊行されている。前回の続きとして、金子夫妻がパリに着いてから、『鮫』ができあがるころまでの足取りを要点だけ記しておく。一九三〇年一月、前年一一月末にパリに着いていた三千代と合流。フランスでは他国人の就労が禁止されていたため、さまざまな仕事に手を出すが、生活は困難をきわめる。やがて三千代はみつけた仕事の都合で、アントワープに出立。一九三一年一月、パリにいられなくなり、ブリュッセルに旧知のイバン・ルパージュを頼って行く。そこでは再び厚遇を得て、個展の開催、ベルギー見物、三千代の詩集出版、ついには帰国の世話までしてもらう。その間、三月九日に二人は協議離婚届を出し、アントワープやパリにいた三千代の自由の便宜をはかる。一一月ごろに三千代が合流。一九三二年一月、三千代を残して光晴が先に帰国の途につくが、シンガポールで下船し、四カ月ほどマレー半島を旅行。このころ、やめていた詩作を再開し、作品「鮫」のモチーフを得る。四月、三千代が先に帰国。五月には息子の病気の知らせを受け、一四日に神戸着。
 参考までに『西ひがし』(一九七四)から、晩年の回想ではあるが、帰路における心情が伝わる文章を引いてみる。いずれもシンガポールに滞在しているときの吐露である。
 「人前がみっともないとおもう虚栄心でパリなんておもい出し、お互いに、つまらない消耗をしたものだ。(略)なんと、この人生から、愛情が色褪せてしまったことか。僕がただ気付かなかったというだけかもしれないが、人々の愛情をあてに生きることが稀になったことか。愛情が恥辱となる時が、なんと近々と来ていることであろうか」(『金子光晴全集7』より)。
 「三菱第三ゴム園で手にした金を加えると、旅費きっちりで、事によるとまだすこし不足がでるので、もう一度他所へ出かけて稼がなければならないことになった。(略)雑誌『楽園』の縁故でわずかにつながっている斎藤氏にも便宜をはかってもらっているので、そのうえ、旅費の問題を話せるあいてでもなかった。そのとき、僕の心が、とうにあいそづかしをしたか、先方から僕にあいそをつかしたのか、どちらにせよ、全く無縁で、十年近く離れていた詩が、突然かえってきた。それほどまでに自分が他に取柄がない人間だと意識したときは、そのときがはじめてで、その時ほど深刻であったことはない」(『金子光晴全集7』より)。
 「この南蛮の地で、明日を考えずにくらしていることは、旅の泊りのもの珍しさのうちならばともかく、それがいつはてるかしれないということになってみると、心が渇いて一刻もはやく立去りたいとおもうことが耐えきれなくなる。しかし、ふしぎなことに、親兄弟をはじめ、友人や仲間など、人間個人として、再会したいという顔は一つも浮んでこない。幼な友達もいなかったし、文学、詩などでいっしょにしごとをした連中でも、会ってみたいという人の顔はなかった。(略)ただ、僕らがかえることで運命が変るのは一人の息子であり、ほっとするのは、幾年間、その息子をあずかって育ててくれた、彼女の年老いた父母と、彼女の弟妹たちであった」(『金子光晴全集7』より)。
 光晴は帰国したものの、息子をそのまま三千代の実家にあずけ、上京する。すぐに三千代と再会するが、しばらくは別の部屋で暮らす。その三千代は少しずつ原稿が売れるようになり、後に流行作家となった。一九三二年九月、実の妹らの設立した化粧品会社に広告担当で参加し、月給五〇円をもらえるようになって、家族三人の生活は安定する。一九三五年、『文芸』九月号に「鮫」が載り、好意的な批評や原稿依頼などの反響がある。一九三七年八月、詩集『鮫』は二〇〇部出版されるが、梱包も解かれないまま、光晴宅と出版元の武田麟太郎宅にほとんどが山積されたという。
 一九三六年に起こった二・二六事件に象徴されるように、時代は、国をあげて戦争にのめり込んでいくところだった。彼らがようやく帰ってきた日本は、利益を優先するヨーロッパ諸国を見習って、植民地政策に必死にしがみついていたのだ。ヨーロッパ諸国による植民地政策とは、世界にとっては諸悪の根源であり、その影響は現在においても根が深い。ここで、その政策がうまれた背景を、研究者の見解をふまえて振り返っておきたい。
 一四一五年、ポルトガルのジョアン一世の軍隊が、北アフリカにおけるイスラム教徒の拠点セウタを攻略したとき、西ヨーロッパ諸国の大航海の時代がはじまる。中世において、ヨーロッパ人の船が大西洋に乗り出した例は絶無ではないけれど、組織的な遠洋航海が開始されたのは、ジョアンの第五王子エンリケ(西アフリカの沿岸に向かって探検船を派遣)の時代以後のことだった。ポルトガル人の航海は着々と成果を上げたが、一四九二年にはスペイン人が、国土の南部を占拠していたイスラム教徒の最後の拠点グラナダを陥落した後、積極的に探検航海を開始した。やがて両国とも、コロンブスの新大陸発見、ヴァスコ・ダ・ガマのインド到達などを期に、新天地の征服に乗り出すようになる。
 この競争に、一六世紀後半になるとフランス、イギリス、オランダなどが参加し、ヨーロッパ人の勢力は世界に広がっていく。これらは単に地理的発見ではなく、異教徒征服という宗教的動機や、領土獲得の政治的意図や、香料貿易・奴隷貿易などの経済的欲求に根ざしていた。初期のアフリカにおける奴隷貿易は、ヨーロッパの商人とその地の君主との正式かつ対等な交渉によるものであった。しかし、インディオと接触したポルトガル人、スペイン人が無差別な虐殺をおこなった結果、現地での大規模な奴隷調達が不可能になったこともあって、一五〇一年にスペインの王室は、アメリカへ奴隷を輸出することに関する勅令を出す。勅令を与えることで王室の得た貿易税による収入は、スペイン経済を左右するほどのものとなり、奴隷貿易に対して王室は寛大な態度をとるようになる。同時に、奴隷の待遇が急激に悪化し、航海中に死ぬ者も増えてくる。当時の奴隷貿易は、商人が安価な製品をアフリカに輸出し、その利益で奴隷を購入して、西インド諸島およびアメリカ大陸に輸出、ここで奴隷を鉱物や食料品と交換し、ヨーロッパに持ち帰って売るという、利潤の追求の環をうんでいた。このようにアメリカ大陸へのヨーロッパ勢力の浸透は、労働力不足の問題を発生させることで、事態を加速させたといえよう。一七世紀に入ると、大西洋の制海権を失ったスペインとポルトガルにかわり、イギリス、フランス、オランダ、デンマークが奴隷貿易の主役になる。
 こうしたアフリカ人を商品とする奴隷貿易が、ヨーロッパにもたらした富は莫大なものであった。論者によっては、一八世紀の産業革命は、アフリカの資源に対する徹底した搾取によって蓄積された富のおかげで、はじめて可能になったと考察している。一例を挙げれば、当時のフランス商人は、奴隷貿易で投資額の三倍の利潤を、定期的に回収していた。そしてアフリカの資源や文化を荒廃させたヨーロッパ諸国は、一九世紀の末にはそれらを植民地化することで、世界に対してさらに自国の勢力を伸ばそうとしたのである。
 光晴が数年にわたる放浪のなかで、心に深く感受したのは、こうした歴史のもとで弱者の位置にいた者の姿だったのかもしれない。ヨーロッパでもアジアでも、権力を擁する者は、弱い立場の人間を絶え間なくいたぶっていた。そうすることで、いたぶられる者をその生活に慣れさせてしまうのだ。光晴は彼らの生活を、哀れみをもって眺めるとともに、それぞれの個人における生命力の風変わりな強さをこそ、自伝三部作で丹念に描いている。しかし現実の問題としては、これは他人事でもなく、自分がそうした一人になりかけているとの思いもあったはずだ。そして今度は、故郷でもある日本が、そのような強者の行為を真似しようとしているのである。『鮫』の自序には、次の言葉がみつかる。これらの言葉の裏には、怒りや恨みがひしひしと感じられよう。
 「鮫は、南洋旅行中の詩、他は帰朝後一二年の作品です。なぜもつと旅行中に作品がないかと人にきかれますが僕は、文学のために旅行したわけではなく、塩原多助が倹約したやうにがつがつと書く人間になるのは御めんです。よほど腹の立つことか、軽蔑してやりたいことか、茶化してやりたいことがあつたときの他は今後も詩は作らないつもりです」。
 詩にかかわるとは、現実逃避するだけのものではない。自分の内なる愛情の意味の正しさを、世界のなかで証明することでもある。ならば非道な暗い時代には、それなりの覚悟をもって、自分の信じる愛情の意味を守らなければならない。このように考えるとき、当時の光晴の心に『鮫』にみられる言葉がほとばしり出たことも、自然に納得ができる。

  一
そらのふかさをのぞいてはいけない。
そらのふかさには、
神さまたちがめじろおししてゐる。

飴のやうなエーテルにたゞよふ、
天使の腋毛。
鷹のぬけ毛。

青銅(からかね)の灼けるやうな凄じい神さまたちのはだのにほひ。秤(かんかん)。

そらのふかさをみつめてはいけない。
その眼はひかりでやきつぶされる。

そらのふかさからおりてくるものは、永劫にわたる
権力だ。

そらにさからふものへの
刑罰だ。

信心ふかいたましひだけがのぼる
そらのまんなかにつったった、
いっぽんのしろい蝋燭。
——燈臺。

  二
 (略)

  三
こころをうつす明鏡だといふそらをかつては、忌みおそれ、
——神はゐない。
と、おろかにも放言した。
それだのにいまこの身邊の、神のいましめのきびしいことはどうだ。うまれおちるといふことは、まづ、このからだを神にうられたことだった。おいらたちのいのちは、神の富であり、犠とならば、すゝみたってこのいのちをすてねばならないのだ。
…………………………。
…………………………。

つぶて、翼、唾、弾丸、なにもとゞかぬたかみで、安閑として、
神は下界をみおろしてゐる。
かなしみ、憎み、天のくらやみを指して、おいらは叫んだ。
——それだ。そいつだ。そいつを曳ずりおろすんだ。

だが、おいらたち、おもひあがった神の冒涜者、自由を求めるもののうへに、たちまち、冥罰はくだった。
 (略)

 やや長いので、「燈臺」を部分引用した。この詩は、一九三五年一二月の『中央公論』に発表されている。その前年には、満州国という日本軍部の傀儡政権が成立して、反日の気運は世界中で急激に高まり、中国との直接衝突も避けられない情勢にあった。周知のごとく、この作品の発表から一年半後には中国との戦争が開始され、太平洋戦争にまで拡大していく。そんななか、国家権力を揶揄する意図をもって、金子はこの詩を雑誌に載せた。もちろん国内においては、思想弾圧や言論統制がおこなわれていたので、軍国主義批判や反戦を正面から訴えることは不可能であった。そのため、巧みに象徴的技法を用いて検閲を逃れたといわれているが、その批判精神の露骨さをみると、不思議でならない。
 作品では、権力者である「神さまたち」を頂点とし、戦闘機の飛行機雲とも思われる「天使の腋毛」や「鷹のぬけ毛」を据え、権力者に同調する者として「燈台」をちりばめているようだ。「天のくらやみを指して、おいらは叫んだ。/——それだ。そいつだ。そいつを曳ずりおろすんだ。」との率直な反発に、詩人の魂の成熟を味わいたい。

(二〇一七年一一月一五日 了)

profile

竹内敏喜(たけうち・としき)

詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)

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