reviews
詩と出会う

essays
いま

interviews
人と出会う

今、詩歌は葛藤する 12
~『新年の手紙』、人類の悲惨について考えよ~

竹内敏喜

 二〇一五年の読書初めに、ユゴーの『レ・ミゼラブル』を選んでみたところ、読み進めるほどにひどく感心した。新潮文庫の五冊本は今度が三度目の通読だが、以前は文学書として接するのみだったので、主にフランス社会の歴史や当時の文化を考察した部分は読み流していた。けれども当然のことながら、この作品の主題をじっくりと熟成させるためには、逃れようのなかった人類の苦難と栄光の経験が、物語の背景に描かれなくてはならなかったことを理解する必要がある。一方、作品のそうした性質をふまえると、冒頭に登場するビヤンヴニュ司教やジャン・ヴァルジァンはいささか観念的な存在ともみえ、それぞれに理想的な人物像だと思われてくる。それはおそらく、彼らを社会変動の大きな波に呑み込ませながら、良き精神を貫く姿で描き切ることに、作者が挑戦した結果なのだろう。二人はまさに人の道と神の道の交差点に置かれている。その意味でも、二人の出会いの場面は重要だ。社会を憎む心しかなかった出所してまもないジャン・ヴァルジァンに、質素な生活を営む高齢の司教は次のように述べ、良き精神にふれるきっかけを与える。
 「あなたは、悲しみの場所から出て来た。だが、お聞きなさい。天国では、百人の正しい人たちの白い服よりも、悔いあらためた一人の罪人の涙にぬれた顔の方が多くの喜びを受けるでしょう。あなたがその苦しみの場所から、人間に対する憎しみや怒りの考えを持って出て来たのなら、あなたは憐れむべき人です。好意と優しさと平和の考えを持って出て来たのなら、わたしたちの誰よりもすぐれた人です」。
 この一文の内容が作者を支え、同時に長大な物語の土台となっているのだろう。作品では、紆余曲折の後、慈悲の心を学んだジャン・ヴァルジァンは偽名を用い、ある町を繁栄させた功労によって、固辞したものの市長となる。そして信念に基づいた善政をおこなうが、自分と間違えられて捕らえられた無実の者を救うために、本当の名を告げて再び逃亡生活に入る。また、不幸な少女コゼットとの出会いに親としての愛情の芽生えを知り、逃げ込んだ修道院に仕事をみつけてからは安らかな日々を送れるようになった。やがて、今の自分が次のような考えを持つことに気づき、進むべき道の困難さをあらためて知る。
 「たしかに、美徳の一面には傲慢につながるものがある。そこに悪魔のかけた橋があるのだ。多分ジャン・ヴァルジァンが知らないうちに、その一面に、その橋に近づいたそのときに、神は彼をプチ・ピクピュスの修道院に投げ入れたのである。自分を司教とだけ比べていた間は、自分のいたらなさを知り、謙虚であった。ところがこのごろは自分を凡人と比べるようになり、傲慢の心が生まれていた。結局それは少しずつ憎しみの心まで逆戻りしてしまったかもしれない。修道院は、その坂の上で、彼を引き止めたのだ」。
 彼には、修道院で生活する女性たちが、まるで牢獄につながれているようにもみえた。犯罪者が鎖でつながれているように、彼女たちは信仰でつながれている。前者からは呪い、憎悪、嘲笑が生まれるが、後者からは祝福と愛があらわれる。まるで違った二種類の人間が、贖罪という同じ仕事をおこなっており、後者の汚れのない人たちの贖罪については、彼はすぐには理解できない。しかし、ついに心のなかで一つの声が答える。「人間の高潔さのなかでも最も神聖なもの、他人のための贖罪だ」と。そこで、自己犠牲の絶頂、到達し得る徳の最高峰を目の当たりにしていると考えるようになる。
 このあたりから作品は、ジャン・ヴァルジァンを傍観者の位置に変え、様々な若者たちの行動を描きつつ、作者による社会考察を前面に出してくる(とはいえ物語の最後、危篤の彼とポンメルシー夫婦の和解は、彼を中心にしたもっとも美しいシーンだ)。例えば、当時の社会主義者の提起した問題については、次のように語られる。「労働力を上手に使えば、公共の力が生じる。利益を上手に配分すれば、個人の幸福が生じる。上手な配分とは、平等な配分という意味ではなく、公正な配分という意味にとらなくてはいけない。最良の平等は公正なのである。この二つ、つまり外部における公共の力と、内部における個人の幸福とが結合すると、そこから当然、社会の繁栄が生じる」。
 これは政治家でもあったユゴーの、いわゆるヒューマニズムから発した理想の表明とも受け取れよう。この一節を味わうとき、現代の日本社会における「平等」観念のあさましさが、よくみえるのではないか。それは恥ずかし気もなく、横並びの数値を示すことで、最善を尽くしていると断言するにちがいない。もちろん、先ほどの「公正」という語の背後には、ビヤンヴニュ司教の述べるような神の教えが控えており、それは日本には根づいていないものだろう。『レ・ミゼラブル』にふれるのはこのくらいにするが、それにしても日本では何かといえばこの壁にぶつかり、互いに口ごもるしかない。確固とした責任者を存在させないことで、普通の権利を行使できる者を、逆に限定するかのように。

神は
たった六日間で
ぼくらの世界を創ってしまったというのだから居心地の悪いのも無理はない
おまけに気まぐれで神経質な神は
七日目にその手を休めてしまったのだから
かわりにぼくたちは働かなければならないのさ

「緑の導火線を通して花を駆りだす力は
ぼくの緑の年齢を駆りだす。木の根を枯らす力は
ぼくの破壊者だ」と歌ったウェールズ生れの天使は
急性アルコール中毒で脳細胞を破壊されたままニューヨークの病院で死んでしまった
その都会の東二十八丁目十四番地のプリンス・ジョージ・ホテルの
熱と悪夢にうなされているぼくらの頭上の部屋で
谷川俊太郎がぼくらの魂について詩を書いていたとは知らなかったよ
 「……それから風邪をひいた田村夫人のために/僕
 等はプラスチックの箱に/刺身と御飯とお新香をい
 れて持って帰った/テレビではまだマリリン・モン
 ローが生きていて/それからもちろん旅行者小切手
 に/くり返し自分の名前を記して/人間は今あるが
 ままで/救われるんだろうか/もし救われないのな
 ら/今夜死ぬ人をどうすればいいんだい/もし救わ
 れるのなら/未来は何のためにあるんだろう……」

巨大な冒険と漂流譚の絵本のおしまいに
二枚の写真がぼくらの眼の暗部にむかってひらかれる
左側にはマンハッタン生れの金色の生毛の少年
右側の全頁には八十歳の緑色の老人が大きな手をあげて
ヘンリー・ミラーは二人の自分自身の写真に言葉をつける――
「とにかく、ともにこれから何かがはじまろうというのだ」

神が手を休めたおかげで
ぼくらは一日中働かねばならぬ おお 涙の涸れるまで
頬を薔薇色に輝かせて
人類の悲惨について考えよ

 田村隆一の「頬を薔薇色に輝かせて ニューヨークの六日間」という詩を、『新年の手紙』(一九七三)から引用した。ユゴーの作品の悲壮な印象とのギャップはともかく、ここにも「神」の存在と「人類の悲惨」への意識があることに注目したい。ところで、このユーモアをまじえた作品に、いつものように理屈っぽい読解を加えようとしたなら、どうにも野暮な気分になってしかたない。この感覚も、作者の才能のなせる技なのだろう。そのため以下の解釈では、作者の意図から大きく外れることを承知したうえで、詩の内容の可能性を探っていく。余興だと思って読んでいただけるとありがたい。
 まず、タイトルに「六日間」とのことわりがあり、これは『聖書』に記された神による世界創造の六日間と符合させられている。おそらく、神のように創造しなければならなかった語り手の特殊な日々を示唆しているのだろう。次に、第二連では「ウェールズ生れの天使」と形容される詩人の作品が引用されるが、神の存在をふまえると、その詩の言葉は啓示を意味するのかもしれない。「緑の導火線を通して花を駆りだす力」とは、植物における生命力の燃え上がりの比喩であろうし、「ぼく」の「緑の年齢」を駆りだすというのも、自然な衝動をあらわすと考えられる。同時に、堕落を経た生命にとっては、「木の根を枯らす力」へと進んでいくものであり、この過剰さは「ぼく」においても「破壊者」とみえるものだ。そのように、天使とみなされた詩人自身も、「花を駆りだす力」イコール「アルコール」(?)によって、ニューヨークの病院で死んでいくしかなかった。
 「破壊者」の観念を前提にすると、人間に死がおとずれるよりも前に、病いという症状を起こさせる。この運命にとらえられたかのごとく、かの詩人の亡くなった「ニューヨーク」で、そのとき語り手は「熱と悪夢にうなされて」いた。これは創造中の神の気持ちを察し、同情心を抱いたうえで選択された表現とも考えたい。その頭上の部屋では、現代の詩人である谷川俊太郎が、語り手に知られることなく「ぼくらの魂」について作品を書いている。彼の詩は、新しい天使による啓示を意味するのだろうか。そこには次のような言葉がある。「人間は今あるがままで/救われるんだろうか/もし救われないのなら/今夜死ぬ人をどうすればいいんだい/もし救われるのなら/未来は何のためにあるんだろう」。この人生観のなかの時間感覚に、語り手は刺激を与えられたらしい。なぜなら、ここに含まれている問いかけに正面から答えていないにしても、ヘンリー・ミラーへの共感によって、一つの態度を示しているからだ。それは、「巨大な冒険と漂流譚の絵本」のおしまいに、年齢の異なる二つの自分の写真を示したうえで、「とにかく、ともにこれから何かがはじまろうというのだ」と捉える前向きな姿勢である。
 作品のまとめでは、「神が手を休めたおかげで/ぼくらは一日中働かねばならぬ」ことに再び言及されている。あわせて、「頬を薔薇色に輝かせて/人類の悲惨について考えよ」と展開されるわけだが、こちらは第一連とは異なり、神の仕事の後始末による悲惨ではなく、もう少し大局を見据えたうえで、神の作用のない世界における人間の労働生活の意味のつかみ難さについて、その悲惨さを「考えよ」というニュアンスで読んでみたい。そうすると作品末尾では、人類にとって絶対的な意味を発生させられるのは、「涙の涸れる」ことと「頬を薔薇色に輝かせ」ることしかない、との主張が込められているとみえないこともない。けれども「頬を薔薇色に輝かせ」る源は、「花を駆りだす力」の充実した若さや、「アルコール」による自己没却や、「とにかく、ともにこれから何かがはじまろうというのだ」という意志のゆえなど、いずれでも良いのだろうか。こうした問いも大切だが、このように顧みること自体が、意味を求める人間を悲惨さに陥らせるのではないか。
 ここにおいて作品全体をふりかえったなら、「人類の悲惨」への対処の仕方が随所に記されていると気づくはずだ。それは、詩人が天使の位置につながり、その詩の言葉が啓示となる点において、最終的にはこの作品自体が、さらに新しい天使によって描かれたことを意味するだろう。いや、タイトルの「六日間」に着目したなら、書き手は神の立場を模倣しているとも想像できる。「人類の悲惨」について考えるのに、「頬を薔薇色に輝かせ」なければならないのは、いわば神の位置に近づくためであり、「人類の悲惨」についての考察を労働とする神の創造につながっている。ただし、これらは旅行先の一都市にすぎない場所で、「熱と悪夢にうなされて」頬を紅くした語り手の内面において、「六日間」だけ成立した出来事にすぎない。なんとも現代の詩歌らしい洒脱な発想だと思われる。
 余談だが、引用されている谷川氏の詩句における救いへの感覚を、救いの形の探求だと捉え直した場合、詩歌をその一つと見做したい誘惑にかられる。すると、詩歌を対象とさせて、次のようにいい換えることも可能だ。「人間は今あるがままで/詩を知っているんだろうか/もし知らないのなら/今夜死ぬ人をどうすればいいんだい/もし知っているのなら/未来は何のためにあるんだろう」。ここから導かれる解釈は、生死の問題から逃れられない個人とは特殊な時間軸そのものであるため、彼にとって詩そのものは完成されることなく、常に未知を含むものとしてしか存在できないということだ。他方、多数の個人の集合である人類にとっては、時間軸を超越した視点を備えられるゆえに、詩は人類の鏡のようなものとして、知ることができるものではなく求めたものを出現させる対象のように感じられるだろう。常に完成しているとともに、だれにも全体をあらわさないという性質である。つまり個人は、詩歌に見放されているというより、詩歌を得るためには人類の立場に自己を鍛える必要があるのだ。そのとき詩歌は求めに応えてくれるだろう。
 田村隆一は詩について、どのような考えを持っていたのか。一例を挙げれば、高橋和巳との対談「流動する時代と人間」(一九六六)では以下のように述べている。「ぼくは詩は品位だと思うのです。こんなことを言ったら怒られるかもしれませんけど、他にないんだもの。人間が品位をもつというのは、いかなる種類のものであれ、詩的経験をもつことだと思う。(略)文明とか何とか言わなくても、しぼり出す(express)ということは品位をもつということだと思う。つまり、人間が人間になるという仕事です」。人間が人間になること、それは人類としての立場に自己を鍛えることに通じるだろう。
 また彼は、一九六七年一二月から一九六八年四月末まで、アメリカの田舎の学生町で一風変わった教師生活を体験しているが、帰国後におこなわれた池田満寿夫との対談「体験的アメリカ論」(一九六八)では、池田の「文学をやっている人の場合は、とても外国に長く住めない感じですね」との質問に、次のように答えている。「まだ散文を書く場合だったらいいですよ。言葉というのは土から出ているものだから、外国で暮らしていると、自分の言葉の生まれる地盤がないわけです。だから詩の場合はむずかしい。ぼくは五カ月ほどのあいだ、ついに一行も詩が書けなかった。言葉が生えていないからです。(略)アイオアで飲み食いして、友達とはなはだ不完全な英語でしゃべったりしても、言葉を本質的に使っていないのだから、それは自分にとっての生活とは思えない」。ここにも、言葉の生まれる地盤といった意識が記されている。
 そこで最後に、田村隆一の勧めに従って、人類の悲惨とは何かと問うてみたい。問うてみたいが、個人的な回答を明らかにすることに抵抗を覚える。その内容の未熟さや羞恥のためではなく、『レ・ミゼラブル』の書かれた時代とは異なり、他者との共通点がないだろうとの予感から、告げることに虚しさを感じてしまうのだ。ならば、この感覚こそが人類の悲惨の現代的なあり様ではないかと、ふと思う。この感覚の地点に踏みとどまることも、個人にとっては困難な闘いとなるだろう。今回引用した作品の最後の一行の孤独な姿には、そのような意識もこもっているのかもしれない。

(二〇一五年一月三〇日 了)

profile

竹内敏喜(たけうち・としき)

詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)

>>竹内敏喜の詩を読んでみる

>>essays