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今、詩歌は葛藤する 
〜『永遠へと続く午後の直中』、若い詩人の夢と悲しみ〜

竹内敏喜

 詩人のみる夢は美しいだろうと思う。とりわけ若い詩人なら、夢にふける時間が許されているため、自己の内から生まれる言葉にじっと寄り添い、いまだ推敲の能力が不安定であるがゆえに、繰り返し磨きをかけながら、夢の状態の実現を試みたりするだろう。彼の感受性には、見たいものだけを見ることも許されている。なぜなら明日への不安よりも挑戦の気持ちが強く、目の前にある不快な対象でさえ、さらりとその存在を忘れることができるからだ。しかし美しい夢も現実へと飛び出せば、非常に壊れやすいものでしかない。その壊れゆく様子を眺めてもなお、若い詩人なら、劇的だと魅力を感じるだろうか。習作をつくっては壊し、つくっては壊す、その集中した時間のなかで、やがて彼は美とは何であるかと自覚していくはずだ。そしてふいに、当然のようにあった美が消えてしまう。
 消えてしまった美を追いかけることは困難である。例えばそれは、神のような存在だといえるかもしれない。この時点で、ほとんどの若者は詩との関係を終え、勤労生活を中心とした日常を受け入れていく。それを詩人の死と呼んでみても良い。一方、禁断と略奪という創造の感触を忘れられない者だけは、詩を手放しはしないだろう。彼にとっての詩は、美しい夢との追い駆けっこから、味わった創造の感触を模倣するたぐいの探求へと変化し、自己の前にひろがる大地を、敵とも味方ともするにちがいない。
 その後の若い詩人の成長過程については、書き手の数ほどのケースが考えられるが、仮に空想のモデルを使って描いてみる。まず、美というテーマを確認するにあたり、自分の原点として、自然現象に一人で向き合ったときの圧倒的な体験を挙げるかもしれない。あたかも自然の巨大さと同化した高揚感であり、高揚感を超えたまっしろな瞬間のことである。その感動から受け取った強い印象を、あらためて絵画にしたり、音楽にしたり、文章にしようと試みながら、いつしか何よりも言葉に美意識が刺激されることに気づく。これは、詩の一行にはふしぎな魅力があると、自分自身で納得することだ。そのとき、創作行為の思い出をふりかえったなら、絵画という象徴性には現代の空気とは異なる現実感しか認められず、音楽という反復性には偏った意味しか感じられないなど、縁が切れてしまった理由もみえてくるだろう。
 次の段階としては、詩作に励み、多作となる方向で進めてみよう。彼は、詩の小道具でもある題材に関し、その選択があまりに無造作だとしても、なにかしら感性的かつ理性的な判断が働いていると信じる。なぜなら詩の最初の一行は、天の導きにも似て、運命のように発生すると思われるからだ。ただし、二行目以降の言葉を続ける際、日常雑記に近い表現から逃れられない事実をつきつけられ、才能への不安を感じることもあるだろう。そこで、幼少期の体験による根強い幸福感の、無意識的な影響について考えるかもしれない。いわば世界を愛するという感覚に無防備であり、ささやかではあっても興味深い何かを、対象のなかに容易に見出すことができる自分の性格をみつめ直すのだ。
 念のため、彼と対比的な人物の例を添えておくと、出生を喜ばれなかった赤ん坊ならば、幸福の感覚や根拠を、成人後に努力して自分で確立しなければならないとも想像される。さらに極端に述べれば、その人物にとっては、人間存在の定義でさえ独力でみつけなければならなかったはずだ。そのような苦難を味わってきた他者と出会って、己の経験を平凡だと感じたなら、若い詩人は負い目を覚えるかもしれない。けれども同時に、書くことに伴う責任の意味にも気づき、創造行為の非個人的な奥行きを理解していくだろう。
 また、文章がすらすらと書けるタイプではないとしたら、そうした人物の傾向として、ひとつひとつの言葉に大きな負荷をかけて作品を成立させるのではないか。換言すると、散文をよどみなく記述できるタイプとは、言葉の扱い方が違うと考えられる。とはいえ、使用する単語に慣れ親しむにつれ、作品は表現の面から散文化していき、飛躍が少なくなるだろう。譬えるなら、以前は、その単語の半面しかみえず、文のなかで積み重ねた意味の強弱につまずきながら、補うようにして次の言葉を飛躍させていたが、しだいに単語との関係が自分なりの意味に安定してくると、文そのものが落ち着き、全体的な停滞感に陥るようになる。そこではじめて、意味やイメージを意識的に飛躍させる技法の必要を感じる。つまり、自由詩ならではの、形式の不自由な模索が求められるようになるだろう。
 と、ここまで書き進めて、困ったことになった。それは、次の四人は友人でもあるからあえて記すと、当初は『昼も夜も』(二〇〇三)を想定してこの文章を綴っていたが、あらためて詩集のページをめくっても心が動かないのである。作者の生活上の苦しみや喜びの反映が、作品のなかにそれほど無いような疑いさえ起こり、むしろ人の「あたたかさ」への祈りと背中合わせになった、自己の宿命へのナルシスティックで受動的な姿勢が、より強く感じられてきた。ならばと、『壜の中の炎』(二〇〇三)を読んだり、『詩日記』(二〇〇四)を開いてみたが、その洗練された文体をたどり直すほどに、ロマン主義的な様式美のもと、こぼれ落ちる弱音が意外に多いと思われた。この弱音は書き手の真の感情に近い気もするが、作品全体がドラマチックに仕立てられているため、古典的な味わいにとどまり、あたかも純粋な夢を共にみようと誘われているようで、訴えかけてくる現実感が淡い。彼ら三人は、若くして詩の技巧に長けてしまったがゆえに、心の葛藤が充分に進まなかったのだろうか。
 いや、これら優れた若い詩人だからこそ、最初の詩集で、こうした困難な自己の問題をさらけだせたと捉えるべきかもしれない。事実、それぞれの第二詩集では、言語表現への挑戦として、独自の文体を使いこなしているだけでなく、複雑な語り口により自意識の壁を壊しつつ、他者への積極的な接近がみられる。そこで達成された愛情表現は、日本語として神秘的でさえある。ハンナ・アレントは「詩人たちは、愛が決定的な経験であるばかりでなく、絶対不可欠な経験でもある唯一の人間である、そして愛は彼らにそれを偏在的な経験と間違える権利を与えるのである」と指摘しているが、三人はその愛情の切実さの予感において、理想の関係という魅力と不器用に闘い、それゆえに他者からの理解の足りなさに繰り返し失望しながら、前進してきたのだろうと想像させられる。第一詩集発表時の彼らは、一〇代後半、三〇代に入ったところ、二〇代前半と、年齢にも隔たりがあるので、同じ切り口で論じるのはおかしいのだが、詩へのまなざしに共通する真剣さが感じられたため、敬愛の念を込めて批判的に触れてみた。もちろん現在では、当時とは比べものにならないほど、それぞれに視野を広げ、きめこまやかな活動をしていると思う。
 次に手を伸ばした詩集は、『永遠へと続く午後の直中』(二〇〇五)である。このとき作者の小川三郎は三六歳くらいだろうか。お会いした際、詩とかかわって間もないと語っていたが、その人物像としては、詩集の「あとがき」に「一篇の詩の解釈は、読んだ人の数の分だけ生まれてくるものだと思います。この詩集を読んでくれた人が、その人にしか出来ない解釈を生み出してくれたなら、私はとても嬉しいのです」と記しているように、他者の気ままな楽しみ方に対して距離をとれる詩人という印象があった。それは一面では社会生活における大人の態度だろう。だが、詩を読むという行為において、彼のそうした考え方に全面的に同意できるかといえば、そうでないのも事実である。
 一般的な理解では、芸術は魔法ではない。書き手が自分の感情を他人のなかに送り込んだり、呼び覚ましたりする手段ではなく、ひとつの鏡のようなものだ。つまり読み手が自分の感情について、本当はどんなものであるかと気づく鏡であり、むしろ魔法を解いて迷いを覚ますことに本来の効果がある。この観点をふまえて、ある作品を読むときに、寓話的にさまざまな感情移入が当てはまるというのなら、その自由度は否定できない。しかし、自分の詩を自在に解釈してもらって良いという見解が、作品内容の読み取りにファジーに対応できるということを意味するとしたら、単に書き込みが足りないか、全体としての統一がなされていないと考えるべきではないか。
 小川氏の詩作品の特徴を挙げるなら、表現形態としては簡潔な一行の羅列と、その一行で断言される非日常的な意味による飛躍、ならびに表現内容としては舞台装置の自在な出現と、作品末尾での出口という観念の探求などがある。詩的内容の展開が、作品の性格を表しているのではなく、どこにも出口がないことを主題にしつつ、空想的なアフォリズムをちりばめることで、作品に骨格があるかのような幻想を抱かせるものだといえる。こうした作品理解から再考すると、確かに読者にとっての自由な読み取りの余地はありそうだが、それは一行の断言による非日常的な意味の発生が、登場人物に動きを与えられるという道筋における柔軟さであり、必ずしも読者の心に何かが届いたうえで、その内面から現れる読解によるものではなさそうだ。いわば、ゲーム等の操作としてハンドルやボタンを動かせることを、自由な解釈とみているにすぎず、そこに読み手を酔わせる感覚や刺激はあっても、覚醒させる要素は基本的にないだろう。
 また、現代の社会からは、神話的価値はもちろん、民話的な道徳価値も失われつつあるので、一般性に通じる寓話的意味を作品に読みとろうとすることは愚行に近い。逆にいえば、どんな「場所」も抽象化による経済的価値以外の性格を剥がされてきたが、その影響は人間存在にこそ作用している。この事実は作者も感じているらしく、作品からは寓意的性質を排除しているとも見受けられる。そのうえ、どうやら作者自身は人生に対して覚めきっているため、作品は構成統御されたものだとしても、この世に神がいないのと同じように、そこに骨格があるとは信じていまい。そのようにしてできた創作品は、作者の社会人としての生き方が選ばせた、逆説的な夢の状態なのだろうか。ここにおいて詩人の位置に同化すると、常識的な覚醒が起こる。だが、それは詩による目覚めではない。
 そのように本人に告げても、静かな笑顔で受け入れてしまうのが、この詩人らしいとも思われる。ところで、小川氏の作風はそれだけではない。次に、詩集中の「滲」という詩を引用してみる。

古い人と
隣り合わせてベンチに座る。
干乾びた風にのって
老人の匂いが微かにする。
昔はどうか知らないが
この人は柔和な心で
変わり果てた風景に
毒づきもしない。
私が喋れば
その都度うなづき
(黙らせようと思えば出来たものを)
昔話もせず
新しい土
新しい壁の間を老人として
新しい服
新しい帽子で生きる。

私は言葉を継ぎながら
心の底で
何かを否定しようとしている。
そうでもしないと
揺らいでしまう。

言葉は北風に曝されて
古新聞と共に干乾びた。
老人はうなづいている。
ふと人生が沈黙する。
私も合わせて沈黙してみる。
すると冗談の様に
涙が滲んで驚いた。
たわいもないのだ。

 この「涙」は、作中の物語の流れにおいて効果を与えるために現れたものだろうか、それとも作者の本心としてあったものが、この作品を生みだすことによって適切に配置されたのだろうか。この問いに、完璧に答えることは不可能だ。その意味で、オーデンが述べる次の発想は大切だと思われる。「芸術家の生涯は、その作品に多くの光を投げかけるものではない。しかしながら、たいていの人が了解しているよりももっとしばしば、芸術家の作品がその生涯に光を投げかけるかもしれないということを、私は信じている。頭のなかに、ある想像上の観念をもっている芸術家は、その観念と同じ性質をもった人間関係に自分を巻き込むであろう」。
 そこで、「涙」には真情の吐露があるものと仮定し、詩人の心を味わってみたい。結論だけ述べると、「私は言葉を継ぎながら/心の底で/何かを否定しようとしている。/そうでもしないと/揺らいでしまう。」という若さが意地を張る部分と、「言葉は北風に曝されて/古新聞と共に干乾びた。/老人はうなづいている。/ふと人生が沈黙する。/私も合わせて沈黙してみる。」という諦観を受け入れる部分との対応関係に注目せざるを得ないが、ここには個人の存在のあり方の真実が書きとめられていると思う。そのとき何が起こっているのか。例えば、人と人が語り満ちて後の無言の前に、再び詩の心が訪れるとしたら、その静寂は開かれたものとしてあり、それは日常のなかに詩の機能が露出されることではないか。そして真実に付加する言葉は必要ない、という岐路を前にして、この詩人は、「すると冗談の様に/涙が滲んで驚いた。/たわいもないのだ。」と自己の弱さをたどり、読者に自己の思考をさらけだす表現を選んでいる。なるほど、彼にとっての詩作品とは、あくまでも読み手を酩酊させようとするものなのだろう。そう納得すれば、彼の第四詩集『象とY字路』(二〇一二)の達成が、いかにも現代詩の大きな成果だと感受できる(詩集タイトルが男女の性器を示唆しているなら、あまりに稚気俗悪だが)。
 さて、若い詩人のみていたものは本当に美しい夢だったのか、彼の求めた詩は夢の実現だったのか。世界の内にあって、事物の存在という謎に向き合うことで、無邪気に喜びを知る幼年期が、ほとんどの子どもにあっただろう。なかには詩という言葉に出会い、過剰な期待の心が持続され、現実を忘却させる想像の時間に引き込まれることもあったはずだ。それらが失われてしまったのは、「美しい夢だったのか、夢の実現だったのか」と問うことを、自ら止めたからにすぎない。詩人なら何度でも、その問いへとふりかえり、決心しては前進し直す。それは年齢とは無関係だ。ただし、その姿を認めるのは、詩心のあふれた、さらに若い者だけだろう。おそらく詩歌とは、夢をみる若い者のために存在する。

(二〇一四年六月一六日 了)

profile

竹内敏喜(たけうち・としき)

詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)

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