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詩の散歩道 6 最終回

夜中のお日様と星明かり

小網恵子

 今回紹介する2篇の詩は、偶然だが太陽や星がタイトルに入っている詩だ。忘れることが多くなったお母さんと小さな孫娘が登場する。

「夜中のお日様」   沖長ルミ子

夜中に冷蔵庫を開けたら
お日様がかくれとるので
びっくりしたで
ぱっと明るうなってケーキが見えた
おいしそうでな
ひとつ食べてみた

「ひとつだけ?」
いや ふたつかもしれん

「ふたつだけ?」
ふたつしかなかったからな

いつものように
知らないよ ではなかった
おばあちゃんの今日の冷蔵庫物語は最高
夜中のお日様に私も会いたい
でも
冷蔵庫にケーキなんか入れてなかったはず

夜 好物を見つけると全部食べてしまうので
買い置きはしない

味噌やあぶらあげ 豆腐
並べて出してあった日は
朝ご飯の用意のつもりだったかな?
途中でそれを忘れたか おいしいものが見えたのか
冷蔵庫の扉があけたままだったけど
それでよかった おばあちゃんには黙っている

おばあちゃんがおいしいケーキを
ふたつも食べてしばらくして
よく晴れた日の暮方
西の小山の山頂でお日様がゆうらり
ゆらっと揺れて沈んでいった

 (「Something17」 書肆侃侃房,2013年)

 介護する立場から書かれている作品だが、おばあちゃんの「夜中に冷蔵庫を開けたら/お日様がかくれとるので…」という言葉が秀逸だ。冷蔵庫を開けて食べ物を探すというのは認知症の症状としてよく聞く。私の母も生前、夕食用にと煮ていたカボチャを一鍋食べてしまったことがあった。おばあちゃんは夜中に冷蔵庫の中の明るい光でお日様が見えた、ケーキが見えたと本当に思ったのだろう。介護する日々の中で作者もその思いに寄り添っている。冷蔵庫は食べることに直結している。食物があることの安心が冷蔵庫の中のお日様に結ばれているのかもしれない。最終連、穏やかにおばあちゃんが生を終えたのだと感じさせる。

「星明かり」   甲田四郎

山また山のその奥の
真っ暗な崖っぷちに車を止めて電気を消したら
夜空をはずして洗濯して、またはめたよう
私は目玉をはずして洗って、またはめたよう
研ぎ澄まされた星々が
山の稜線から稜線までぎっしりだ
星明かりに照らされる
一歳四カ月のユリとパパとママと女房と私だが
こんな星々を何十年前に見たのだったか
そのとき恐怖を覚えたのを思い出す
何千万度の熱が何億兆もありながら
私たちを暖めることができない

近々と互いに息を掛け合えば
ユリは暖かい声を上げて手を振る
「人は死ぬとお星さまになるんだよ」
それは恐ろしい比喩だ
私の父はあの星母はあの星
昔骨箱の黒い木切れで帰ってきた叔父はあの星
叔父が殺した中国人はあの星とあの星とあの星か
病死
衰弱死餓死焼死轢死溺死窒息死感電死薬物中毒死
被撲死被斬死被弾死爆裂死放射能死生体解剖死
それら天空ぎっしりの煮えたぎる感情に
私たち照らされて仄白く立っている
この瞬間星がまた誕生している
屑になるほどの数の星が
煮え出されている
ユリよ
おまえの暖かさは私たちにとってかけがえがなく
私たちの暖かさはおまえにとってかけがえがない
そのかけがえのないところでいつか
星の話を聞いてほしい
星屑の感情を
知ってほしい

 (甲田四郎詩集『冬の薄日の怒りうどん』ワニ・プロダクション, 2007年)

 旅先だろうか、星がこれほどあるだろうかと思う星空を仰いでの詩だ。孫娘を含めた家族と眺める圧倒的な星空。それらと向き合った時に「人は死ぬとお星様になるんだよ」という言葉を思い出す。父や母、戦死した叔父、周囲の人々から戦争でなくなった人の死へと思いが及ぶ。この分類された死の記述に、あらためて戦争で命を落とした人の数の多さを感じる。死んだ人の思いを受け取ってほしいという願いが孫娘に対して語られる。それは自分の前を歩いて行った人たちの軌跡を受け止めて、次の世代へ伝えていこうというメッセージだ。
 2篇とも生きること、死ぬことという重いテーマをもちながら、身近な家族への愛情があふれている。ゆとりのある書きぶりが魅力的だ。
今回が「詩の散歩道」の最後となる。読んで下さった方々がそれぞれの散歩道を辿りながら、響いてくる言葉や新しい見方を見つけて詩を楽しんで下さることを期待している。

profile

小網恵子(こあみ・けいこ)

1952年東京生まれ。1998年詩学新人。詩集『雲が集まってくる』(詩学社, 2000年)、『耳の島』(書肆青樹社, 2002年)、『浅い緑、深い緑』(水仁舎, 2006年)

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