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詩の散歩道 4

あの日から

小網恵子

 3月が来るとあの震災の日を思い出す。昨年の秋に訪ねた会津の町には福島県の大熊町から避難して来た人達の住む仮設住宅があり、そこで震災の日のこと、今の生活について話を聞いた。「仮設住宅は5年しか使えない。あと2年しかここに住めないのに、この先どうなるか全くわからない。不安だけがある。」と。除染が進まず、それぞれの家族がこれからどうやっていきたいのか役所が各戸に聞き取り調査をしていると話していた。先日の新聞(2014.1.16朝日)によれば町の低線量地域に3000人が住む復興拠点を整備する方針を決めたとあったが。2011年、震災の後に発表された詩を紹介する。

「埋葬」   柴田三吉

新月の夜、ねむりの土地に、遠く沖合から音
もなく津波が押し寄せてくる。頭上はるかを
覆う波が引いたあとは、きまって、青白い鱗
に覆われた死体がひとつ残される。わたしは
死者を古い戸板に移し、一枚、また一枚と、
硬い鱗にナイフを入れてはがしてやる。刃の
触れる部分から、からだは透明になっていく
が、さいごに残る、かたつむりのような骨を
拾って砂浜に埋めてやる。

流されたものたちが帰ってくる。遠く離れた
わたしのねむりの土地へと。もうなにものも
壊さない、しずかな津波に運ばれて。はがし
た鱗を重ねていくと、砂浜はいつしか環状の
塚となる――満月の夜、降り注ぐ光に照らさ
れ、きらめきはじめる魂のかけらたち。わた
しはさらに埋葬する。見ず知らずの死者。彼
らはきょうも、死者であるがゆえに、生者を
使役しなければならない。

生者は死者によって使役されなければなら
ない。彼らを、手のひらの浅い窪みに記憶する
ために。夜が明ける前、ねむりの土地を壊さ
ぬよう、わたしは丸くなって目覚める。この
身が重くなったわけではない。この身が崩れ
るのを怖れたわけではない。この世のきりぎ
しに指をかけ、膝をそろえて立ち上がり、ゆ
るやかに一歩を踏み出す。飽和していく魂が
こぼれ落ちないよう額を天に向けて。

 (「馬車」45号/2011年)

 震災と、死者としっかり向き合うというメッセージを感じる。津波にさらわれたことにより死者は鱗をまとっている。津波の犠牲者という一括りの外見、そのひとりひとりの内側を見つめることが硬い鱗をはがしていく行為なのだろう。1枚1枚がその人の思念のように思える。2万人にものぼった死者がそれぞれ歩んできた人生を思うこと、それを私達は「ねむりの土地」として心の中に置いて生きていかなければ、と問いかける。3連の「この世のきりぎしに指をかけ、膝をそろえて立ち上がり、ゆるやかに一歩を踏み出す」では私達がこれからするべきことについて、さらに考えさせられる。

「折り鶴」   吉元 裕

鶴が 風で庭に落ちていた
千羽鶴のために小さくたたまれた一羽
汚れているのに 白さが目を打つ
子どもが折ったのか 角が甘い

たとえば僕らが
逃れられずに朽ちゆくとしても
必ずどこかで祈ってくれる人がいる

懐かしい写真や手紙を見返すように
ときどきそのことを思い出せれば
ちゃんと最後まで立っていられるだろう

一つの夢が終わり 一つの夢が始まる
どの夢の中にも
喜び 悲しみ 不安や快楽がある
変わるのは周りの景色だけで
心のある場所はいつも変わらない

いつでも普通に生きる
時々鶴を折る

 (「たまたま」21号/2011年)

 日本では祈りの象徴である千羽鶴を折るという行為、その折られた鶴を見つけたことから展開していく詩だが、苦難を受けた人へエールを送る詩と言っていいかもしれない。私達がひとを思い、また思いを感じることで生きていく、そのシンプルだけれど大切な心持ちを改めて感じる。「普通に生きる」ことを断った地震、津波、そして原発。今、なお不安をかかえる人々をどう私達が支援していくのか、原発を私達の国がどう考えていくのか、目先の経済だけでなくもっと長い先を見通して進んでいかなければと思う。鶴を折ることは自分の今の場所を確認するという意味も持つのだ。

profile

小網恵子(こあみ・けいこ)

1952年東京生まれ。1998年詩学新人。詩集『雲が集まってくる』(詩学社, 2000年)、『耳の島』(書肆青樹社, 2002年)、『浅い緑、深い緑』(水仁舎, 2006年)

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