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唐作桂子『川音にまぎれて』

(書肆山田、2013年10月5日発行)


 小気味いい文体のひと。
 自由に、奔放に、好き勝手に、こんなに詩を書き走っているさまを間近にするのは、快いことだなあとつくづく思う。

幽かにふくらんではほそくなり
呼吸する鬼火を
小躍りしながら追いまわす犬。
ほどほどにしときなさいと
奥さんはリードをひく

生前に旦那が発注していた
作家ものの骨壺は
ちと小さすぎたようだ。
詰めがあまいのよねと
奥さんは舌打ちする。

(中略)

廃寮になった三階建ての
古風な堅牢さは
数週間で緑とゴミに覆いつくされた。
立ち入り禁止なんてくそくらえと
奥さんと犬は金網の隙間をくぐりぬける

「奥さんと犬」より

ねえ肩甲骨のタトゥーを見たい?
うそ、タトゥーなんて入れたことない
でもひだりの太股の内側に
ハート形の痣があるのはほんと。

合図を見逃さないていどに
透徹した聴覚と視覚を備えていたい
そして今がそのときだと
わかったときに行動できるだけの
筋力を維持していたい

おそれているのは
そのとき、
なにもできずに見送ってしまうこと
宙づりになって

「ワタシヲシンジヨ」より

その先に思いを馳せることができる
ゆたかな川にはいくつか橋がかかっていて
電車のための橋と
車とひとのための橋がある

(中略)

川音にまぎれて
ひとつの名前を呼んでみる
遠く、距離をおかなければ
発音できない名前を

「川音にまぎれて」より

 この詩集をとても遠く引いたところから受けとると、赤裸々な書き手の姿が浮かびあがる。なんでこんなにあっけらかんと、あけすけに、思いの丈を打ち明けてしまっているんだろうと、不思議なおかしみを覚える。こんなふうに言葉が生まれることができるのが、詩の素敵なところで、詩の詩である由縁の、醍醐味なんだと思う。

 どんなに詩のなかで「川音にまぎれ」ようとも、この人の肉声は詩のうえで、朗々と明瞭に発されている。

 たしかなことは、人が生きる途上でどのように何をどれほど失おうとも、生きていくかぎりにおいて、人はその生だけは獲得してやまない、ということだ。と、そんな一握りのたくましさを持って、行きたい道を行く人の姿がほの見え、どこかへ消えていく、その間際の、もしかしたら夕間暮れの土手の人影が、この詩集の残してくれる心象なのかもしれない。
 颯爽としているほどに見えてしまう諦観が「川音」を求めているにせよ、まぎれもなく独白はくっきりと響いて、清々しい。

文/白井明大

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