reviews
詩と出会う

essays
いま

interviews
人と出会う

久宗睦子『新・日本現代詩文庫99 久宗睦子詩集』

(土曜美術社出版販売、2012年8月5日発行)


一人の詩人の足跡のおおよそを、
一冊にまとめる文庫を手にすると
考える前に立ち止まってしまうことがあります。

その一冊が、そのまま一人の詩人の一生を
包摂するものであるかのようで
おそれのような神妙な気持ちをいだきます。

自筆年譜によると、
久宗睦子は1929年に東京・文京区に生まれ、
1941年(12歳)から終戦の翌年1946年(17歳)まで台湾で暮らします。
またその両方の年、41年に母を、46年に父を亡くしています。

同じ46年、文学の志をたえず抱える17歳の少女は
新聞への短歌投稿を続け、東京新聞の短歌欄で年間最優秀賞に選ばれました。

その後も短歌を続けながら、10年後、
1956年に書店で手にとった本や雑誌などを通じて現代詩と出会います。
結婚し、子を生み、育て、
1972年(43歳)に創設された婦人雑誌「ミセス」の詩の投稿欄「詩苑」で
同年、第一回の年間最優秀賞を受賞します。

そして第一詩集『春のうた』(山の樹出版)を上梓したのが、
さらに10年後の1982年(53歳)のことでした。

もし、いまなら、と思います。
ですがそう思っても仕方のないことだろうとも。
いまなら何が違い、何が同じままなのかも。

女性が詩の活動をしていくとき、
時にはざまのようにも見える空白の期間があることに気づきます。

『久宗睦子詩集』を開いて冒頭に出会う詩に、
そうした背景を読み込むべきかどうかは分かりません。
その詩は、第一詩集の表題作でもあります。

春のうた   久宗睦子


わたしは詩いたいのです
ばら色の頰を喪って
かわりに得たものを
あんなにもわたしを嘲ろうとした
時が
今はいつもわたしの隣りを歩いていることを
燃え朽ちてしまった愛は
安らかな化石となって永遠に
わたしのものであることを

わたしは詩いたいのです
れんぎょうの黄や
もくれんの赤むらさき
かいどうのうすももいろが
はるかからつづいていることを
春はいちどわたしを通りすぎていっても
いつもわたしが春の中にいられる
ことを

わたしは詩いたいのです
遠いものが 心のレンズに
くっきりと焦点をあわせるとき
わたしの目から
悔恨と追慕があふれ落ちることを

悔恨は、言外に
追慕は、主題となって──
久宗睦子の詩は綾なされるのかも知れません。

その追慕がつのりながら、悔恨を拭い去っていくさまを
目の当たりにする詩があります。

沖縄で暮らす自分にとって、
「朴の花」という詩が、近しい台湾という南国に
遠いのか近いのか分からない六十有余年という過去に
思い馳せるたび、不思議な停滞となって、
心に棲む詩となっています。

 朴の花   久宗睦子


朴がひらく
高い梢に
ふっくらと 小さな郷愁の胸を

郵便局の 洋子さんが逝った

洋子さんのお兄さんは なぜか何年も
中学に在籍してしまったので
戦争が終る頃 とうとう軍艦に乗って
大きな体ごと沈んでしまい
秀才のMさんは 苦学してお医者さんに
なったと聞いたが
二年ほど前 癌で亡くなったそうな
士官学校に行ったAさんは 胸を悪くして
行方不明で
剣道部の主将だったDさんはいつも朴歯の下駄を鳴らしていたが
他人の保証人になり破産して自死したという

南の島の 昔の中学五年生は
気味が悪いほどニキビだらけで
みんな 私の家の防空壕の上に乗って
わたしの着替えをのぞくのが好きで

南の島の暑さの中で 窓を閉めきるのは
ほんとうに とても辛かったのに

Aさんが士官学校に行く渡航の前日
Mさんが こっそりと私を呼びにきて
あの恐ろしい中学生たちと 女学校三年の わたしは
Mさんの家で レコードの壮行会をした
曲は始めから終わりまで「アルルの女」
洋楽のレコードは もう禁止で
これが最後の鑑賞だからと……

わたしは裏木戸の近くに黙って立ったまま
サーチライトの交叉する
南の夜空に
かすかに反響する「アルルの女」を
聴いていた

洋子さんにいつか話したいと 思っていたのに
(ちょっぴり恥ずかしかったから)

あの風景に わたしだけ いま入れない
みんな陽気で 曲に合わせて口笛をふいて
汗の染みた学帽を 投げあったりして

なんのために わたしを呼んだのか
だれも なにも言ってくれない ままで

朴の花がひらく
真っ白な郷愁の胸を 中天に
いまならば わたしも一緒に
眼に焼きつけておくだろう
その喪われる前の 甘やかなふくらみ

文/編集子

>>reviews