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ブルーベリーのこととかを考えながら詩を書いています。

蛾兆ボルカ

私は公立の小さな研究機関で働いているが、詩やその他の活動などをきっかけにしたつきあいでは、所属を名乗らないことが多い。名乗っても私に益が無いからだし、むしろ不利益がある。どのみち詩の会合やライブハウスで、専門的観点からなにかを私が話すことはない。それは組織のなかで議論し、詳細に検討されないと表に出せないからだ。したがって自動的に個人としてしか語らないことになる場所で、職務所属を語る必要はない。
いや実は語りたくないのでもある。たとえばバーなどでも、よほど気を許さないと私は所属を語らない。公務員というものに対する、私とは直接関係のない理不尽な批判にさらされることも少なくないからだ。
世の中には公立病院医師、野生キノコ研究者、裁判官、警察官、自衛官、教師などなどじつにさまざまな公務員というものが存在し、それが同じようにバブル崩壊後、給料カットや据え置きの憂き目をみたままになっているわけなのだが、どうも世間にはなんでもかんでも市役所の窓口業務と一緒にして、その上で攻撃的なことをいうひとが多いのである。窓口も行政も結構大変だろうと思うし、直接間接に自分も関連して仕事をしている。いや、ほとんど常に誰かにお世話になっている。だから私相手としては的外れな、窓口業務への皮肉も、あまり無惨な悪口には胸が痛むのであり、俺は違うし、などと言うのは大変気が引けるのである。かといって、自分がやったこともない仕事への皮肉に頭を下げて、ごめんなさいなどというのも思えば無責任なことであり、嫌な後味が残るものだ。

実際、私の叔父などはもう80に近づく年齢のはずだが、どうも官を毛嫌いすることをかっこいいと思うらしく、なんど言っても私に仕事の話を振るときは「役所はどうだ?」と言い続けてきた。その影響で母までが、「夜遅くまで役所も大変ね」などと言いだし、閉口したこともあるぐらいだ。
さすがに母には猛烈に抗議して、それはやめてもらったのだが、やめてもらうにあたり、もっとも効果的だったのは、自分で(仕事(実験)のために)育てた作物を自分で買い取り(買わないと持ち帰れない)、母に送ることだった。
そんなわけで、私はこの数年、大量のブルーベリーと大量のリンゴを自分の畑から購入したのだった。

詩に関連した場所では、仕事については語らない。とは言ったが、それは原則である。そうとも言いきれない場合が実は結構ある。やってみればわかることだが、大根一本だって、リンゴ一個だって、ちゃんと育てるには大量の知識と労力がいる。つらい作業もある。バーで私に絡んでくる酔っぱらいが思うような楽な仕事などどこにもない。
母はいまわの際だ。まもなく母が喜んでくれたブルーベリーのシーズンとなる。リンゴの白い清楚な大量の花が咲き乱れ始める。母が私を現場の研究者と納得してくれたきっかけであったろうブルーベリーとリンゴが、だ。
どうしてそれらを詩に書かずにいられようか。名乗りたくはないが。


そんなわけでいきなり腰砕けな自己紹介ではあったが、そうは言いつつ、ここでは以下にブルーベリーについて少し書こう。

私はどうもブルーベリーほど残念な作物も少なかろうと思う。人々が食べているのと、最高に美味しいものの差が、あまりにも大きいのである。

ひとつには品種だが、いま誰かがブルーベリーの木を買おうと思うなら、栽培は楽だが生食(ジャムやドライフルーツやパイなどではなく、そのままつまんで食べたら。という意味)では食味が劣るラビットアイ系か、生食で美味しいものの栽培には手がかかるハイブッシュ系かを選び、その上で品種を選ぶことになる。だが、ブルーベリーは非常に品種が多く、一般のひとが簡単に国内の苗木屋さんから買えるものだけでも、200種を超えているといわれる。それだけ、味や香りが違うバリエーションの広い果実なのだ。
私が栽培管理しているもののなかにも、ミント系の爽やかな味のする品種もあるし、酸味の強弱もある。一粒が500円玉より大きい品種もある。なかには、こりゃあ抜群に美味しいや、と感じた品種もあった。美味しい時期も品種によって異なる。形も丸いのもあれば平たいのもあり、少しごつごつした品種もある。ところが!スーパーで売っているブルーベリーのパックには、どれもこれも「ブルーベリー」としか書かれていないのである。言わせてもらうなら柚とネーブルを同じミカンと名付けて混ぜて売るようなものだ。美味しいかどうか以前に、怪しいのである。

もうひとつ、ブルーベリーの残念な点は、輸送である。
ブルーベリーは、樹でちゃんと熟さないと美味しくないという性質がある。また、ちょっと早いだけで驚くほどまずい。熟してから収穫するから、必然的に持ちが悪いのである。
ブルーベリーについては、学会では「園芸学会」に研究成果が報告されるが、これは大きすぎる学会である。より専門家同士が緊密に議論し、さらに農家や、驚くべきは菓子のパティシエまでが入っている「ブルーベリー研究会」というのがある。
そこで聞いた話が面白かった。小池洋男氏による海外事例の紹介だったのだが、もし詳細について知りたい方があるなら、ブルーベリー研究会の「第3回講演要旨」を参照していただきたい。

イタリアSantOrsolaブルーベリー協同組合は小規模農家1200戸からなるが、品種の選定から栽培方法まで自分たちで決めて計画的に行っている。それだけでなく、流通まで自分たちでやっているという。

ブルーベリーは収穫してから冷蔵するまで、いかに時間をかけないでやるかがひとつの勝負なのだが、この組合では、なんとブルーベリー畑に冷蔵庫を持ち込んで、冷やしながら採取していく。そのまま集荷、選果、パック詰め、トラック輸送まで、完全に管理して行う。たとえば、トラックへはコールドルームみたいな部屋で詰め込み、途中に抜け目がない。のみならず、販売店にまで、コカコーラの自動販売機みたいなブルーベリー販売専用冷蔵庫を配布して、最後まで適温で消費者に届ける。
それをやると、美味しいであろうことはもちろんだが、どうも3ヶ月間も貯蔵可能だというのだ。ご家庭で冬まで冷凍ではないものを食べられるわけだ。

なぜここまでやるのか。あるいはできるのか。マニアックすぎるではないか。

その疑問に答える経済学・経営学的な、また作業論的な研究もあるかもしれないが、私は勉強不足で知らない。歴史学や社会学の興味の対象なのかもしれないが、知らない。今回私はサイエンスの話を書いているのではないし、役人として話しているのでもないから、今回は、ここで読者諸賢に向かって畏れ多くも甘い言葉遣いをしてみせようと思うのだが、これはやはり、「商品を愛しているひとたちがマネージメントしているから」、なのではないのか。

これはもうベリーを食うということの文化だと思う。そのためにイタリアではここまでやった。このこだわりはまったくすごいことだが、これはマネーゲームや国策ではとても実現できない感じがある。そういう種類のきめの細かさなのではないかと思う。山間の小規模農家の組合が主体でやったということ。そこが大事なところなのではないだろうか。
TPPは、世界の農業を分業化させる可能性があると私は思う。日本が何を輸入し、何を輸出できるかは今後変わるのかもしれない。
だが、なんにしても、金ではないこともある。日本でも本当はやはり、農協がやることのすごさというものが、もっとあるはずなのではないだろうか。そういうものを国内に持つと言うことは、文化と言うことなのではないか。と私は思う。


柄谷行人が、「文学界」に昨年末から、「山人と柳田国男」と題した論を連載していて、非常に面白かった。その話がちょっと思いがけなく関連するから、最後に付け加える。

詩に関心のある人には、柳田は「遠野物語」の作者であり、民俗学者として知られるだろうが、もともとは農政官僚である。柄谷は花田清輝を引用して、柳田が花田にこう言及されていることを紹介する。

引用・・・
(柳田国男は)農村における前近代的な共同の在りかたを否定的媒介にして、産業組合と農業組合を打って一丸とするようなあたらしい組合の在りかたを―――超近代的な組合の在りかたを考えていたのだ。
「柳田国男について/花田清輝 著」/ (これ以上は引用を略すが、花田はもちろん文化についても語っている。)


柄谷はまた、この論考で花田を引用した上で、次のように見解を述べる。

引用・・・
「明治時代に農商務省の官僚となった柳田は、「農本主義」を掲げる農政に反対した。この農政は富国強兵を目的とするものである。
工業に投下されるべき資本を農民からの搾取によって得、また、兵士を農村から得る。ゆえに農が肝要である。柳田が反対したのは、このような「農本主義」である。それに対して、彼が提案したのは、小農たちが協同組合によって連合し、農村を商工業を含む総合的な産業空間にする制作だった。」(引用終わり)

柳田の農協というものへの熱い思い。主体的な産業であらしめようとする思想。
この柳田の思想が不可能な夢物語ではないことを、100年の時間をへだてて、イタリアの「強い」ブルーベリー栽培に、私は見る思いだ。



たとえば。

そんなことを考えながら、私は詩を書いています。

profile

蛾兆ボルカ(がちょう ぼるか)

詩人。詩誌『Poem Rosetta』主宰。

→HP「蛾兆の群れ」

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