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《第二期》詩の散歩道 13

台風21号と台風22号の合間に深呼吸して見えた詩、三つ

阿蘇豊

 今日も朝から雨。台風は去ったのに、今度は秋雨前線か。これではハゼ釣りにも行けない。仕方ない。今日は蟄居して、積んである本をあたろうか。音楽はビル・エバンスのピアノ。飲み物は、もう、ココアの季節だな。そしてゆっくり迷宮の中に落ちていく…

  秋の手紙

河口近い鉄橋の下で
風に吹かれていた あの日

引き潮で現れた中州を
セキレイが黄色い旗を振って歩いた

漣のきらめく水の上を
太陽が静かに通り過ぎる
「僕だって水の上を歩けるよ」

忘れたことや 知らないことに守られて
月日は流れた

あなたの内なる少年は
今も 水の上を歩けるだろうか

夕映えは水の上に眩しく燃えて
川岸は 今も秋だけど

 (春名純子/西宮文芸誌「表情」第25号より)

 そうか、我らがこうして息をつないでいられるのは、「忘れたことや 知らないことに守られて」いるからか。うーん、反語的発想だが、言われてみれば、わかるような気もするな。覚えていること、知っていることなんて、ほんの少しだからな。最近とみに忘れっぽくなっているし。などと、ひとりごちたのだった。その次の連、「あなたの内なる少年は/今も 水の上を歩けるだろうか」にも反応した。反応したということは、まだ「内なる少年」をかかえているからだろうか、そうに違いない。そう思いたい。いくつになっても「水の上を歩」きたいと念じていた自分がいたのだ、確かに。

  宛名は「あなた」

少女が赤いポストの前に立っていた
郵便局の青年がやってきてポストの背中を開け
手紙や葉書を 別の袋に入れ始めると
少女は言った あなたが来るのを待っていたんです
私がこの中に落とした手紙を返して下さい

青年は笑いながら答えた
お手伝いをしますよ で 宛名は?
少女は泣き声になって手紙類の海をまさぐった
「あなた」に書いたのは間違いありませんが
名前を存じ上げなかったので…

何も書かれていない白い封筒を拾い上げて
青年はやさしく言った
私たちには届けるのが難しかったかもしれません
少女は上気し ちいさな声で呟いた
すみません

郵便配達の青年は年老いて
時々その日のことを思い出すことがあった
一緒に手紙を探しているとき
かすかに触れた少女の手の温かみが
自分の全身を駆けめぐったことも

遠くに住む「あなた」にたどり着くために
手紙はところ番地という橋を渡り
名前という門を叩かなくてはならない
けれど その日
目の前の「あなた」へ 橋がなかった

たくさんの「あなた」と
果てしない距離の糸を集配袋に詰め込むと
青年は次のポストへと去っていった
自分がひとつの「あなた」を生きていることを
人は時々忘れて道を急いでいることがある

 (上手宰/詩誌「きょうは詩人」36より)

 試みに「あなた」という語を調べてみる。Webでは、「対等または目下の者に対して、丁寧に、または親しみをこめていう。」とある。そうだよねと思いつつ、この詩を読み返すと、「あなた」には、それだけじゃない、意味、あるいは使い方の広がりを持たせているように思えるのだ。例えば不特定多数を示す「あなた」、あるいは、よく知らない人を指す「あなた」というふうな…それから、どうして第1連の4行目のあなただけは、カギかっこがないのだろう。
 「あなたが来るのを待っていたんです」と告げられ、「かすかに触れた少女の手の温かみが/自分の全身を駆けめぐった」のに、「目の前の「あなた」へ 橋がなかった」に至る流れもどこかミステリアスで、何度も読み返して楽しんだ。

  これから先の人生のなかで、今が一番きれい

「わたしが一番きれいだったとき」と
うたったひとがいた*
大きな不幸とそのあとの荒廃の中で

そのように生きてきた しんでいった
ひとびとの その不幸と荒廃の
ただ中をぬけて そのうしろに
今わたしが在ることの 幸運と後ろめたさ

とはいえ
こんな幸運なわたしでも
一番きれいだったのは いつだったかと
キレイじゃなくなり続けると思いながら
このさき生きていくには
平均寿命は延びすぎていて

そこでわたしは
こう思ってみることにしました

これから先の人生のなかで
今が一番きれい
これから先の人生のなかで
今が一番 旬

そう毎日思ってくらして
キレイなしあわせおばさんになって
やがて
キレイなしあわせおばあさんになる

                *茨木のり子さん

 (徳弘康代/詩集『音をあたためる』より)

 わかりやすいいい詩を書くのはムズカシイと、このわかりやすいいい詩を読みながら思った。わかりやすい詩を書くのは勇気がいる。批判されやすいから、コムズカシイ方へ逃げたくなる。わかりやすい詩は、浅く透けて見えることもある。この詩はそうではない。例えば、第2連の「ひとびとの その不幸と荒廃の/ただ中をぬけて そのうしろに/今わたしが在ることの 幸運と後ろめたさ」というあたり、生まれ落ちた時代、環境の中で、今、一人の人として生きていることの複雑な思いを「幸運と後ろめたさ」という言葉で象徴的に表している。そして、そんな思いを抱えながら、イヤ、抱えているからこそ、過ぎた過去や見えない未来にとらわれない、「今」を見すえた「今が一番きれい」「今が一番 旬」という発見にたどり着く。その、呼吸をしている「今」をポジティブにとらえた姿勢に勇気づけられる。「今が一番 カッコイイ」とぼくも言いたくなる。
 そう見ていくと、「きれい」と「キレイ」の使い分けにも味が出てくる気がする。「きれい」が従来の意味合いだとすると、「キレイ」のほうは、年月をくぐり抜けて内面からにじみ出てくるものが加わるのだろう。品格とか威厳とか落ち着きとか…だからだろうか、最終連の四行は、ゆったりした決意が立ちのぼって、すがすがしい。

profile

阿蘇豊(あそ・ゆたか)

1950年生 山形県酒田市出身
詩集
『窓がほんの少しあいていて』(ふらんす堂、1996年)
『ア』(開扇堂、2004年) 他
『とほく とほい 知らない場所で』(土曜美術社出版販売、2016)
『シテ』『布』『ひょうたん』同人

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