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《第二期》詩の散歩道 8

カーテンを開けたら一面の雪、まばゆさに震えながら読んだ詩、三つ半

阿蘇豊

さっきから雷が鳴っている。だんだん稲光とゴロゴロの間が短くなって、どうなるんだろ、と思ったとたんゴロゴロが来て、窓枠がビリビリ震えた。と思ったら、光とともにドゥーンと尾てい骨に響くよな音がした。近くに落ちたのかな。けれど幸い、停電はしていない。

  生ける

お花を習ったことがない
枝や花を切って飾るのは
性に合わない
自然からそこだけ取り出し
引き立てようと思わない

プレゼントにもらう花束は好きだ
何気なくポキリとやったり
折れたのを拾ったりすると
水を入れた器に挿した

台風で根こそぎ倒れた
御神木の枝を拾ってきたことがあった
枝分かれの弾力ある茎
淡い緑の幼い葉を残し
長いコップに砂利と水を入れ
そこに挿した

一週間しても淡い緑のままで
一か月したら巻いていた葉が開いた
そのうち根っこが生える?
変化ない季節は過ぎて
冬は終わり春は過ぎまた夏がきた
赤茶けて萎びた皮
枯れた葉は黒くこびりついて

チューブを挿して

父は生け花になった

ベッドの上で

 (広瀬弓/詩集『みずめの水玉』より)

最後の三行に驚いた。それまでは「御神木」、なんてことばにどこか違うなという感じはあったけど、いいリズムで、うなづきながら追っていけた。それが、ページをめくって、この三行、流れが急に変わった。こんな変わり方ははじめてだ。ショックを覚えた。この行間のとりかた、「父は生け花になった」というメタファーに意表を突かれた。どこか得体のしれない奥深さを感じた。肉親へ向けた、こんな鎮魂のかたちもあったのか…

  舌鮃

    わたしは
灰色に対する灰色だ。わたしの生は
砂の色を性懲りもなく真似ることから
成り立っているのだが、
    わたしが食べ敵をあざむけるようにしてくれる
この絶妙なからくりが
わたしを奇形にしてしまった。美しい動物の
均斉をなくした。目と
鼻は
顔の片側に寄ってしまった。わたしは
いつも海底に横たわっている
    見えない小さな怪物だ。
すばやくそばを通り過ぎる片口鰯たちは、
砂のざわめきが彼らを
食べてしまうのだと信じている、
巨大な略奪者たちがわたしの恐怖など知らずに
かじろうとする。恐怖が別の血のように
いつもわたしの体の中を巡っている。わたしの体は大きくない。
砂に埋まった一片の臓器に過ぎない。
そしてわたしの肉体の知覚できないふち縁は
さほど離れていない。
ときどきわたしは自分が拡張し
平原のように穏やかに恐れもなく波打ち、この上なく
大きなものよりも大きくなる夢を見る。そのときわたしは
砂そのもの、広大な海の奥底そのものになる。

 (ホセ・ワタナベ/新・世界現代詩文庫14『ホセ・ワタナベ詩集』 (細野豊 星野由美共訳)より)

作者のホセ・ワタナベは日系ペルー人である。日本人でペルーへの移住者の父と現地で知り合った母との間に生まれた。国際的な評価も高く、特にスペイン語圏では著名な詩人である。2007年に逝去している。自然や獣、昆虫などを題材にした詩が多く、そこには故国日本の俳句の影響が認められる。
この詩は「わたしは / 灰色に対する灰色だ。」という宣言から始まる。印象的なフレーズだ。海底の砂の色と寸分違わないようにしつらえた自分の肌の色。その砂への対抗意識。なるほど。ただその対抗意識が昂じて、「目と / 鼻は / 顔の片側に寄ってしまった。」というわけだ。今や小さな怪物、一片の臓器。自分の大きさを知覚することができない。それならいっそ、「この上なく大きなものよりも大きくなる夢を見」ようじゃないか。「海の奥底そのもの」になる壮大な夢を。
今、うちの冷蔵庫にもらったヒラメが入っている。夜、さばいて刺身にしていただこうと思う。「美しい動物の均斉」をなくしたものの悲哀を思い浮かべながら。
ところで、この詩に見られる「この上なく大きなものよりも大きくなる」や、前述の「灰色に対する灰色だ」、などの言葉づかいをおもしろく感じる。翻訳の味も加わっているのだろうか。
なお、この詩は、1999年に上梓された詩集『身体の事々』に収められている。
さきほど、ホセ・ワタナベの詩には俳句の影響が認められると書いた。次の作品にそれが感じられないだろうか。

  水差し

水差しは
一瞬傾いたまま
沈黙を
守った
物思いにふける女のように。
それから床で割れるまで
そのままだった
物思いにふける女のように。

 (同上/初出は詩集『霧の向こうの旗』)

  私を切り離すとき

夫との年齢が離れているので
彼は時々変身する
舅 保護者 ときに子供
私は生年月日をゴミ箱に捨てた

夫がきれい好きなので
彼は夜中に掃除をする
目覚めて清潔に気がつかない私
以来、毎朝瞳を取り出して洗う

夫は人付き合いが上手いので
私の他人との対応が気に入らない
私は余計な事をしゃべりすぎる
唇に赤いファスナーを縫い付けた

夫は人より反射神経がいいので
私の運転に文句ばかり
ブレーキ 車間距離 スピード
私は運転手じゃない
無事故でいるために石を耳につめる

夫がホームレスの男に同情し
小遣い全部あげたら手もとに三十八円しかないと言う
私は数百円数十円のためにスーパーめぐる
共に走る自転車の車輪と私の足を交換した

もう私には手しか残されていない
このまま手を失いとどまることを選ぶのか
夫を土に埋めて私の手はペンを握るか
私はどちらを選択すべきか
私は何を切り離すべきか
早く返事をださなければいけない

 (荒川純子/詩集『VIVA MOTHER VIVA WIFE 』より)

まるでシャンソンを聞いているようだ。シャンソン、少しのアンニュイとウイットと残酷さをまとって人生を語る歌。昔よく読んだJ・プレヴェールの詩を思い出してしまった。
いつの時代も思うようにいかない男と女の関係。この詩の作者も男との避けがたい溝を感じつつ、男に向き合う。その結果、誕生日を捨て、瞳を洗い、口と耳を封じ、足を失ってしまう。だが、私は私であろうとするためには、私を切り離すべきか、男を土に埋めてしまうのがいいか、迷う。時間が迫っている。早くその決断を下さないといけない。
「大変だね、他人と生きるって」とつぶやいてしまった。たぶん詩である限り、デフォルメはあるにしても、いくばくかのホントはあるのだろう。その意味で、自分にも覚えのある、胸のどこかで共鳴する音楽を聴きながら、他人事のストーリーを楽しんだ。

profile

阿蘇豊(あそ・ゆたか)

1950年生 山形県酒田市出身
詩集
『窓がほんの少しあいていて』(ふらんす堂、1996年)
『ア』(開扇堂、2004年) 他
『とほく とほい 知らない場所で』(土曜美術社出版販売、2016)
『シテ』『布』『ひょうたん』同人

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