眠れない夜の天井に浮かんできそうな詩、二つ
阿蘇豊
今日は朝から吹雪だった。三月だというのに真冬に逆戻り。いつもは今頃出てるはずの庭のフキノトウがまだ顔を見せない。この分ではさくらの花吹雪はまだまだ期待しないほうがよさそうだ。
ヘンな詩だね。でも、だからおもしろい。「一本の格子」を一読して、そう感じた。ヘン、は月並みでないこと、ありきたりではないこと。ヘンなことをありきたりが詰まっている日常からつまみ出し、日に当てて見せてくれる。それがおもしろさにつながる。もちろんつまみだしたものがヘンだから、いい詩だというわけではない。それなりのことばの技術が問われるわけだが、反対にいくらレトリックにたけていても、見つけたものがありきたりなら、おもしろくないと僕は呟く。ヘン、はおもしろさの素。
で、この「一本の格子」だが、だれが窓の木の格子を詩にしようと思うだろうか。だれが一本の裏側だけオイルステンの塗られていない格子を一人の青年に例えるだろうか。やはりヘンな感覚、ヘンな見立てだというしかない。だけどそれが人の意表を突き、思いもよらなかったところに連れて行く力になる。そしてそこで現実を忘れ、しばらく自分を遊ばせることができるなら、おもしろいということばが自然に口をついで出てくる。
この詩はとぼけた味もする。「右から数えると七本目/左から数えると九本目」なんてどうでもいいことだけど、ほんわかしたなにかが漂う。「十四人の青年が振り向かないのに」も同じムードで、ついほほがゆるンでしまう。それに、なにしろ、浴室でしょ、羞じらいながらでしょ、わざわざ佇んでいるんでしょ、ほのかなエロスの湯気も立ち昇ってくるようだ。
上の詩を僕はヘンだ、と書いた。そんなことはないと感じた方もいらっしゃるだろう。また、僕はヘンを肯定的にとらえたのだが、ヘンをマイナスにとらえる方もいらっしゃるだろう。当然だ。モノの価値観とか感覚なんて、それぞれがそれぞれ違うものだから。それを表すことば自体もあやふやなのだから。
では、つぎの詩はどんな感覚を与えてくれるだろうか。
これもまた、ヘンが匂う詩である。それに、こわさが加わる。
そういえば、ウェットスーツって、不気味ですね。ゴムの感触もあの黒も、何より人の体ピッタリの形も、うがってみれば中に得体のしれないものが潜んでいるような気にさせられる。そんなある日、ある時、「うつつのさかい」で「バケツと如雨露のすれる音」が「浮かんできてほしくない思い出」を呼び覚まし、「眠れない夜」へ落とす。そして次のバケツの部分。何なんだろ、この連は。「バケツの底に底があり 底に底がつらなっていた」って、「三番目を買い求めた」って、何で三番目なの、何を伝えたいの・・・ハァ、神経がまいってきている、その形象かな、この無意味さ加減は。かくて不気味だったウェットスーツは今や「抱きしめる」対象となり、「一対となって」夜の「底から底へ 落ちていく」のであった。思わず、昔見た映画、「ローズマリーの赤ちゃん」を連想してしまった。主演のミア・ファーラーが知らないうちに悪魔の赤ちゃんを身ごもってしまい、しまいに魔族の仲間入りをする映画ですね。あれ、リアルでこわかった。こわかったから、おもしろかった。
さっき風呂に入って、窓を見た。窓はサッシだがその外に木の格子があった。色は確かめなかった。風呂からあがって、洋服タンスを開けた。ウェットスーツはなかったように思う。布団を敷いた。おやすみ。古い思い出なんて、はいよはいよと来るんじゃない。春よ来い。早く来い。
阿蘇豊(あそ・ゆたか)
1950年生 山形県酒田市出身
詩集
『窓がほんの少しあいていて』(ふらんす堂、1996年)
『ア』(開扇堂、2004年) 他
『シテ』『布』『ひょうたん』同人