見るとはかすかに愛することであり
八森紅雄
詩をよみはじめた高校生のころにも、進学して拙い詩を書いていた時期にも、とくに惹かれることはなかったのに、年輪を重ねるにつれ、その魅力について考え、畏敬の念とともに深い親愛をもおぼえるようになった清岡さんについて、詩をよみはじめたばかりの若い人たちや、あまり現代詩と縁のなかった読者のために、わたしなりに記しておきたい。
手許に1970年1月31日発行の思潮社版『清岡卓行詩集』がある。現在も売られている現代詩文庫のそれではなく、当時の既刊詩集三冊と「初期習作」、そして未刊詩篇を一冊にまとめたもので、「普及版一五〇〇部発行」と奥付にあるうちの一部である。
という巻頭の献辞から、ふたりの故郷、大連で出あって結婚し、清岡さんと息子たちを遺して逝去した真知夫人を悼んで出版されたものであろうことが推測される。
清岡さんと真知夫人とのなれそめ、その他については、現代詩文庫版の清岡卓行詩集所載の、吉野弘による作品論に活写されているのでそちらを参照していただきたい。
それにしても、最愛の妻を喪った清岡さんのかなしみを、抑制のきいたこの献辞によって、かえって深く意識させられるではないか。
この詩集は、なん年か前に盛岡の古本屋で購入した。
ちょうど、学生生活のおわりが近かったころだと思うけれど、20年ほど前に同じ店で、詩文庫の清岡卓行詩集を買ってよみはじめたのだった。若気の至りで当初はその滋味のようなものがわからず、特別な感慨もなく一読したような記憶がある。
詩は青春の文学だとよくいわれるけれど、凡庸でだめな学生だったわたしは、むしろ社会にでてからたいせつなことをたくさん学んだし、若いころは詩にたいする姿勢も甘かったと思っている。もちろん次々にあらわれる若い才能を否定はできないし、一方で田村隆一が喝破したように、老年にならないと書けない詩だってあるだろう。ただ、たんにわたしが無知な二十代を過ごしてしまった、だけの話しなのだが。
清岡さんは、若かりしころから旧制一高に於いて才能をめきめきと発揮し、のちに「円き広場」として上梓される文語詩をおおく書いていた。在学中からその名はひろく知られるところであった。
結婚し、社会人となり、しかるのちに東大を卒業してから、『氷った焰』にはじまるおおくの詩集、『手の変幻』などの評論集、そして芥川賞受賞作『アカシヤの大連』と、小説をも手がけ、その精力的な創作活動は、晩年まで衰えることがなかった。
わたしはいまだ定本詩集も手にしていないし、氏の数多ある小説も少ししかよんでいないので、おおくを語ることはむつかしいけれども、清岡さんから詩人がもつべき凛とした姿勢、気の持ちようのようなものを学んだ気がする。
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清岡さんの詩集というと、真っ先に思い浮かぶのはやはり初期の『氷った焰』、『日常』、『四季のスケッチ』の三冊ということになるけれども、それにもう一冊というなら、真知夫人の歿後にむかえた恵子夫人(作家の岩阪恵子氏)とのあいだに生まれた三男の、誕生から小学校低学年くらいまでの期間に書かれたと思われる『幼い夢と』が、わたしにとっては印象深い。
初期のかずかずの佳篇、「石膏」や「氷った焰」といった、あまりにも有名な作品に共通するのは、視覚的なイメージと、シュルレアリズムの影響をうけた魅惑的な言語とが相互に補完し合い、純度の高い抒情と美を幻燈のように形成していることではないかと、わたしはかってに解釈しているけれど、それから数十年を経て編まれた『幼い夢と』は、二男とは歳の離れた三男との生活のなかで、平易ながらも愛情に満ちた、しかしそこに溺れない、知的な統率と的確な観察をもって書かれている。幼な子との微笑ましく愛情に満ちた交流のなかから得られた、新鮮な驚きは、当時五十代だった清岡さんの、かわることなく若々しい感受性あってのものだろう。
長くなったが、「一年と一瞬」から、三連と八連、それにつづく最終連を引いた。
詩人、作家として名を為した五十代の父親が、六歳の息子と、木立か林の中を散策しているさなかによぎったであろう寂しげな感慨であるけれども、その思いに沈潜することなく、幼な子とともに生きていくことに希望を見いだし、清岡さんらしい壮麗で清しい詩行でこの詩はおわる。
この詩集に登場する三男が、のちに福間健二の『青い家』など、詩集の装幀を手がけるようになった清岡秀哉氏であるということは、あとになってきいた話である。
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さて、話が前後するけれど、亡き真知夫人とのさいごの日々を書いた詩にも、わたしの好きな佳編がある。
「上野」という詩篇なのだが、この詩のなかに対置されているふたつの言葉が、私ごとながらいまだ伴侶のいないわたしにも、深く沁みてくるのだ。
と思っていた若かりしころの清岡さんの胸に浮かんだという「不遜の言葉」、
家族をもってから、その言葉は、つぎのように変奏される。すこし長いけれど引用。
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かつて、学友であった原口統三(『二十歳のエチュード』の著者。清岡さんの小説『海の瞳』のモデル)の自死に直面しながらも、生と死の狭間で思索をめぐらせたであろう清岡さんの、たぶん若い人びとに向けて書かれた壮麗な詩篇がある。長いのですべて引用することはできないが、ぜひとも詩文庫で通してよんでいただきたいと思う。
自殺者が年間3万人もいるという、現在の日本はほんとうに豊かな国なのだろうか。戦後間もないころと比較して、数としては多いか少ないか、調べればわかるのだろうけれど、みずから死を選んだひとりひとりの内面の葛藤、悩みについて想像することを、わたしたちは怠ってはいないだろうか。ぎりぎりのところで、生きることを選択したひともいるだろうけれど、紛争地域でなにが起きているか、みて見ぬふりをしているような平和ボケの日本で、詩を書く人くらいは自己の内面に沈降するばかりでなく、広い視野をもって現実に触れてほしいと、清岡さんのこの詩をあらためてよみ返して思った。(直接、社会について、戦争について書けという意味ではもちろんない。)
説教くさい話しにもっていって、我田引水のそしりを免れないような文章になってしまった。ほんとうの清岡卓行の詩の魅力は、やはり直接テクストにあたっていただいて、読者たるあなた自身が好きな詩のなかに発見するのが最上と思う。上に引用した、「氷った焰」の一節にも、清岡さんのこの世界への愛着があふれてはいないか。生きることを選びとり、家族への愛情を絶やさず、そしてなにより書くことへの情熱を生涯もちつづけた清岡さんに、わたしたちが学ぶべきことはおおいのではないか。
清岡卓行(きよおか・たかゆき、1922-2006)について
1922年、大連生まれ。1944年東京大学仏文科入学。結婚、長男の誕生、日本野球連盟への就職を経て1951年卒業。1959年第一詩集『氷った焔』を上梓。1964年から法政大学の教員として1980年まで勤務。1970年『アカシヤの大連』で第62回芥川賞。単行詩集に『日常』『四季のスケッチ』『駱駝のうえの音楽』『固い芽』『西へ』『幼い夢と』『初冬の中国で』『円き広場』『ふしぎな鏡の店』『パリの五月に』『通り過ぎる女たち』『一瞬』。小説に『海の瞳』『詩禮傳家』『マロニエの花が言った』など多数。ほかにも随筆、評論、紀行文集など、数多くの著作がある。2006年歿。2008年『定本清岡卓行詩集』刊行。
八森紅雄(やつもり・くれお)
1973年宮城県生まれ。
2009年より個人詩誌「百葉」を発行。
→おしゃまの色鉛筆