幻化の技法〜岡田刀水士の詩
春日線香
あの世はどこがどうつながっているかわからぬ――南條竹則の小説にこんな一節がある。特に重要ともいえない一節なのに憶えているのには理由があって、この記述が、我々が今生きているこの世の論理があの世では通用しないだろうことを示唆するからだ。人間の論理は原則的には生の内側の領域で働き、その外側には無明の空間が広がっている。なんとなれば、死の向こう側を知覚することはできないのだから。
といって別にオカルトな話をしようとしているわけではない。死後の世界があるかどうかなんて実際に死んでみなければわからないし、その実在を云々するのは手に余る。もっと身近で、たぶん誰にでもあてはまる話なのだ。たとえばこう考えてもらいたい。
あなたは単調な日々の暮らしに飽き飽きしている。いつも同じ風景、同じ顔ぶれ、同じ言葉……見るべきものはあらかた見てしまって、すっかり日々の生活に埋没している。これといった不満はないが世界が灰色に色褪せて見える。潤いを求めて旅行に出かけたとしてもどこも同じ人の世で変わり映えがしない。自分はこのままひたすらに単調な生を続けていくのか……。
ある時、鬱々とした気分を変えようと散歩に出かける。心が沈んで足取りはふらふらと覚束ない。近所を一回りするつもりがぼんやりと物思いに耽っていたせいで道に迷ってしまう。すると、目の前に広がるのはかつて見覚えのない不思議な街角である。近所にこんなところがあったか? あの赤いポストなんてとても趣深い。ほら、あの小綺麗な喫茶店も、さっぱりと刈り込んだ垣根も。
ひさしぶりに楽しい気分を味わっていた次の瞬間、世界がぐるりと反転する。そこはよく見知った街の一角だ。なんのことはない、自分の方向感覚が狂っていつもの街角を見知らぬものと錯覚していただけだったのだ。今まで一方向からしか見ていなかった風景を思いがけず認識の死角から眺めたのである。でも、この錯覚こそ倦怠を打ち破る方法なのかもしれない。
これは萩原朔太郎の「猫町」のエピソードである。似たような経験は誰にでもあるだろう。ちょっとした感覚の狂いで異界への道が通じ、そこには猫の顔をした異形の人々が足音も立てずに歩いている。ふとしたはずみで人間の領域の外に彷徨い出てしまったのだ。そう、認識の外というのなら死後の世界だとかあの世だとか大袈裟に言わなくても、まばたきする一瞬の間に、背後の暗闇に、冷蔵庫の中にさえそれはある。この世界と重なりながらも別世界はあらゆるところに存在していて、人間の様子をじっと窺っている。
長々と前置きしたのには理由がある。この稿で紹介する詩人は上記の萩原朔太郎の弟子にあたる人物で、この世を超えた別世界の様子を詩に描いているのだ。
岡田刀水士(おかだ・とみじ)は生前に5冊の詩集、遺稿集に1冊がある。特に晩年の『幻影哀歌』『灰白の蛍』は内容的にも手法的にも通じており、この2冊だけでも独自の詩境が窺える。刀水士の詩に興味のある方はまずこの2冊を手に取られたい。
『幻影哀歌』巻頭の「発言」(序文)にこの詩集の主題が象徴されている。
まずもって死者の歌声に和したということが語られる。それも、「ふしあわせ」な身の上を自らに引き受けて、もう歌えない人に代わって詩人が歌うのである。このことによって、詩人が歌っているのか別の存在が歌っているのか判然としがたい、人称が混ざり合ってその総体が声を発しているような詩の世界がくり広げられる。あるいはこう言ってもいい。死者と生者の二分法を無効化しているのだと。
「ふしあわせを世へあばき出したい」この願いは死者の側から発せられたものだが、ここで告発されているのは「運命」である。生きている間は不幸でしかなかった身の上を、<幻>の存在となって別様に生き直したい。そして、そのことによって運命を「あばき出したい」。それにしても「塔とも紫陽花とも螢ブクロとも同化したその 姿や汁液に摺りつかった異形で」とは迫力がある。この部分にも自分とは別の存在と合流して歌うという刀水士の基本的な姿勢が読み取れるだろう。
さて、そうした死者と生者の、あの世とこの世の混淆が具体的にはどのように行われているのか。一見してわかりやすいのは16字詰の散文詩形である。詩の外形が厳しく規定されており、フレームに入れるようにして幻の世界を整えるのは、刀水士の詩における最大の技法的苦心と言ってよい。これがあるからこそかろうじて詩が拡散するのを防ぎつつ焦点を合わせていられるわけで、詩が未分の世界に突入して崩壊してしまうのを防ぐ、いわば最後の障壁である。また、散文詩は叙述を積み重ねて文脈を強く感じさせるものだが、刀水士の詩では叙述の論理性が巧みに狂わされていて、何が書いてあるのかよくわからないままに読まされてしまうところがある。現実が論理に従うのなら死の領域には人間の知覚できない別の論理が働いているという、それを詩の表現として達成しようと思えばこうなるのではないだろうか。もちろん死の領域は知覚・表現しえないとわかった上で擬似的にそれを描く技法である。ついでに叙述を区切る句点と句読点の使用が避けられて空白が用いられていることにも注目しよう。
以上のように、刀水士の詩は強固な技法に支えられいて、全体と細部が有機的に結びついているために、どこか一節を抜き出して読むことがなかなか難しい。一篇を通して、いや詩集全体を通して満ちてくる情感を味わうべきなのだ。このあたりは師である萩原朔太郎が情感を重視したことを思い合わせてもいいかもしれない。先に掲げた詩「紫陽花」の後半部を引く。
先程の「発言」の内容が詩的に表現されていると思う。紫陽花を通じて死者の存在に触れた「私」はそれと和して、水が混じり合うように関係を結んでいる。過剰なまでの水気は詩集全体をひたひたと浸して別世界の感触を伝えるし、<幻>は紫陽花の他にも「塔」「滝」「ツバナ(茅花)」「カキツバタ」「ホタルブクロ」など様々に姿を変えて以降も現れ、「私」との関係を徐々に深めていくだろう。
死後の世界では時空を自在に行き来できる。望めば生まれる前の母胎に回帰することも、そこから新たに生まれ直して運命の手の届かない別の生を生きることもできる。母胎回帰的な主題はさらに深められ、『灰白の蛍』においては「幻母」という超常的な存在となって詩に現れる。
『灰白の蛍』では詩人は死者の側により深く没入して、生々しくも混迷を極めた詩世界が展開する。叙述は『幻影哀歌』の詩群にも増して混乱し、読み進めると、意識が死者の世界に取り込まれて、その薄暗い領域から現世を眺めているかのような幻惑に包まれる。補記で刀水士が「自身がまだ死者的に純化されていないために(…)なんとも心苦しい」と恥じているが、ここまで死者に寄り添って極限的な風景を見せる詩集は珍しいのではないだろうか。なお、刀水士はこの詩集を校正して出版を見る直前に泉下の人となっている。「死者的に純化されて」詩に書かれたそのままに運命の手の届かない場所に旅立ったのだと思うと、その詩的営為の激しさに慄然とする。
最後に余談を。昨年、この「コトバト」のコーナーに鎌田喜八という詩人について書いた。その資料として参照した本に偶然この岡田刀水士の詩が収録されているのを見つけ、刀水士と私の縁はそこから始まった。あの世もこの世も「どこがどうつながっているかわからぬ」のである。
岡田刀水士(おかだ・とみじ、1902-1970)について
群馬県前橋市出身。10代の頃より萩原朔太郎に師事。教職、国鉄勤務の傍ら、同人誌等で活躍した。詩集に『桃季の路』『谷間』『純情の鏡』『幻影哀歌』『灰白の蛍』『憂愁の蘭』(遺稿詩集)。高崎市高崎公園内に詩碑が残る。
春日線香(かすが・せんこう)
1984年生。大分県出身。
「痙攣」元同人。詩集に『十夜録』(私家版)
→水菜