reviews
詩と出会う

essays
いま

interviews
人と出会う

見知らぬ他人の夢を見る −剣月亨の詩の世界

小倉拓也

ピォーイ ピォーイ ピピピピピ
キアシンギたちが同音でなく近い音で
そろって鳴くので
満ちてゆく潮の音に
不協和の筋が混じる

(「金色の緑」より抜粋/『詩学』2002年12月号投稿欄)

■「気づき」の感覚

 剣月亨という、一般的にはそれほど有名とはいえない、けれど非常に稀なすばらしい詩を書く詩人のことを紹介しようと思う。

 私は、このさほど露出の多くない一人の詩人のことを十代の終わり頃に知り、以来ずっとひそかに好きだった。単に好きな詩人の一人というより、なにか特別なものとして思いつづけてきた。日常から一歩離れた場所にふと口を開けて、どこまでも奥へつらなる深い渓谷を見るような、そんな種の敬意と憧れを持ちつづけてきた。

 剣月さんの作品を初めて読んだのは詩の雑誌『詩学』の投稿欄。
 その頃、私も『詩学』に詩の投稿をしていたので、毎月書店で『詩学』を手に取るとドキドキしながらはじめにページを開くのは、巻頭詩でも特集のページでもなく巻末の投稿欄だった。そこで見つけた剣月さんの詩をまず一篇引用し語ることにしたい。

 マルコスさん

工場の裏で
石の上に目を瞑ると
冷たい空気が
肩のかたちに
おりてくるのがわかる

花も実も
なんの特徴もない
木の名前を
言い当てるのに
ふだんのあたまでなくて
つかうところを集中して
探していると
人の気配がしなくなる

作業着のまま
いつも忘れられる
マルコスさんのあたりに
すわっている

目を開けると
薄暗がり
ばらのあかりで見た
木々にからまる
ジャスミンの
下に居た

(『詩学』2002年9月号投稿欄)

 剣月さんの詩の特質の一つは、静かな観察による気づき。殊に身体感覚の気づきにある。
 この詩の一連、そして二連は、日常生活の諸動作を見すごすことなく、まずその動作があるということへの気づきがある。そしてそれが"詩的”な言い回しではなく、端的で適切な言葉で書きあらわされる。
 詩は一行ずつが短く区切られている。だから読者はそれを淡々としたリズムでゆっくり黙読し、静謐な、何気ない、今ここで手に触れたかのような感覚を追体験することができる。
 二連「ふだんのあたまでなくて/つかうところを集中して」という言葉。これはとても剣月さんらしい言い回しだと思う。あまりにも端的すぎるとさえ言える。人によっては詩の言葉として受け入れにくいかもしれないほどの素っ気なさ。けれどこうした表現は剣月さんの他の作品にもしばしば見られる。この詩人の"視線”の位置が、上擦れたりブレたりすることなく、たしかにここにあると感じさせる大切な要素だ。

■詩の場所――剣月さんの庭

 では剣月さんはどこにいるのだろう。また、作品はどこにあるのか。
 それはもちろん、作者である剣月さんが知っている場所であり、読者はその作品を通じてしか知ることのできない場所である。
 ところで、剣月さんの作品には、よく植物や鳥などの生物が描かれている。

冬の庭では
かみさまが
めじろてっぽうを
うっておられる
一羽ずつ
二羽ずつ
あっちの垣根から
こっちの灌木から
いそがしく
持ち直した
弾道が
ちぃ音と同時に移調している

(「めじろ」より抜粋/『詩学』2003年5月号投稿欄)

シロバナキョウチクトウが
蒼く蒼く遊びに誘う
火を焚く畑のにおいのそばには
アジサイ玉がぷくぷく浮かび
思い切り水あそび木あそびして
金穂がまだ残るヨシの
大音声のかくしごと当てあそび
土あそび日浴びてクルクルあそぶ

(「レギュラー」より抜粋/『詩学』2002年10月号投稿欄)

 これらの詩にも見事な観察があり、音と色をともなってイメージは広がっていく。
 他の詩を見ても、スズメ、むく、蟹、カッパ、ボラ、ヒメシロモンドクガ、ナミテントウ、柴犬、巨大裸子植物群…、剣月さんの詩には多種多様な生物たちが(人間も含め)連なり棲んでいる。それらは時に「ピォーイ」とするどく鳴くこともあるが、大抵は野生動物がそうあるように他人の顔をして、うかつに人に近寄ることなく、ざわざわと蠢く気配を草いきれの中に溶かしこんでいるのである。

 剣月さんは『詩学』2004年2月号で詩学新人に選出されている。その際の誌上インタビューでは、自身の好きな場所として、住まいの近所の干潟や浅瀬をあげている。
 また作品からも多分に見てとれるように、この詩人は雑多な都市の中ではなく、土や草のにおいの中に生き、それを五感に染み渡らせながら、そこにたたずむ人のようだ。

 けれども剣月さんの詩は、人の営みや、人の生きる風景を拒絶しているのではない。先に引用した「マルコスさん」に向けられる視線。その気づきは、植物や鳥たちの存在を気づくのと同じ視線による気づきではないだろうか。
 マルコスさんも、めじろも、シロバナキョウチクトウも、剣月さんの作品世界の中では公平に自然物として在る。自然が織り成す人をも含んだ豊かな生物層。その世界を読者は詩を通して感じることができる。そして視線はそれを見ている。

 何故"視線”という言い方をするのか。
 それは、剣月さんの詩に、極端に一人称が少ないことと関係がある。
 たとえば「マルコスさん」の詩の中で、「マルコスさんのあたりに/すわっている」のは誰なのか。
 それはたぶん、はじめに「工場の裏で/石の上に目を瞑」って、その場を見て感じている、視点人物であるところの"わたし”だと思われるのだが、この詩の中に"わたし”という言葉は存在しない。

 いや、実はこの詩にかぎらず、剣月さんの詩にはほとんどすべて一人称がない。それどころか、“あなた”も“彼”も“彼女”も存在しない。
 そのかわりに描かれるのは「マルコスさん」という固有名詞で筆記されるその一人の人の姿である。また、「マルコスさん」と同等の視線を向けられているもの。すなわち、その瞬間そこにあるもの。固有名詞として名前を呼びかけられているかような、一茎ずつの植物たち、一羽ずつの鳥たちだ。

 ほとんどすべての詩で人称がないということは明らかに特異と言えるだろう。作者の実際の意図はわからないにせよ、読者としてはそれは詩人の作意であるように思われる。

 風景としてではなく、一匹の生物としての人間や、動植物たち。
 一つ一つの詩ごとに視線がつかまえた範囲。そこでは、冷たい水にさわることも、虫の糞のにおいを嗅ぐこともできる。それは必ずしもこちらからの一方通行ではない。向こうからもその温度とにおいをそっと指先に触れさせてくる。そして私たちは、一点をじっと見る視線そのもののように、詩を透過して(作者をすりぬけて)、そこにあるものをたしかに見て、触れ、聞き、感じ、遊ぶことができる。
 まるでそこに降り立ったかのように、五感を通じて遊ぶことのできる詩の庭。これが、この作者の設計した庭園なのだ。

 ここまで『詩学』投稿欄時代の剣月さんの詩について触れてきたが、剣月さんの詩の「わからなさ」を見てもらうためにもう一つ投稿欄より「夕紛れ」という詩を引用したいと思う。
 というのも、剣月さんの詩について、『詩学』投稿欄の選者の方々が頻繁に口にしていたのが「わからない」「難しい」というコメントだったからである。
 例えば「夕紛れ」について選者の一人である駿河昌樹氏は次のように言っている。

 ――難しい詩ですよね。剣月さんのは大体そうだけども、こちら側は謎解きに追いやられちゃうんで、しかし僕は謎解きだけで終わっちゃ詩じゃないと思うので、だから単に謎を解くのではない読み方をしたいと思うんです。
 (中略)
 ――剣月さんらしい一つの意味に固定しない書き方をやはりここでもやっていて、読む側が不安定な立場に置かれるわけですけど、でも、絶対それを意図してやっているわけですから。

 夕紛れ

べっこういろの空気にかざした輪っかを
円い鏡と信じて見ている
昏い処
仄かな処
隔たっていた後ろから息を吸う透明
皆 生きていて
この姿がだれでもの正体であることを
疑いきれなくなった

足許で諦めたように黙る
蛙はなにを見ていたのか
折れ曲がる草の微拍子
上澄みにまわる消えそうな虫
その底でゆっくりとうずまく溜水

とりたてていおうとしない土の匂い
不随意に立っていて
隔たっていた前方の息を継ぐ

(『詩学』2003年8月号投稿欄)

 駿河昌樹氏が指摘するように、剣月さんの詩は時に読者に謎解きを意識させてしまい、詩の楽しみの本質から目を逸らしてしまうかもしれない危うさがある。「つまりそれってどういうこと?」という疑問が先に立ち、詩を読む楽しみの取っ掛かりをつかめずに、やがて楽しむ心そのものが失われてしまう状態である。
 これは、剣月さんどうこう以前に、多くの詩を読みなれていない読者が陥ってしまいがちな困難といえるかもしれない。

 剣月さんの詩のこの危うさは明らかに“視線”の近さからくるものである。つまり詩の全体を俯瞰して状況を説明してくれない。その場にいる当事者の“視線”そのものであるからこそのわかりづらさなのだ。
 だから、読者が剣月さんの詩を楽しもうとするなら、読み解こうとするよりも、作者の“視線”と一体化してそこに降り立つのが良い。人称のない詩文はそれをアシストしてくれるだろう。

 読み解くのではなく、わからないままにその詩の庭に降り立とうとしたならば、「わからなさ」は詩世界のざらざらとした(あるいは不快な)手触りとなり、空気の質感となるかもしれない。世のすべての詩がそうであるとは言えないが、剣月さんの詩の庭でなら、おそらくそれを感じることができるのではないか。

 剣月さんの詩はリアルだからこそ、時に不穏で、時に理不尽である。わからないことへの回答はほとんど用意されていない。逆説的に言うなら、詩の世界の中へ行こうとする時、まるで説明書を渡されたかのようにその世界の様相が「わかる」ということは、あまりにもリアルからかけ離れている。そのような、わかりやすい詩をテーマパーク的な詩と表現するなら、剣月さんの詩はそれと対称に自然物的な詩である。
 そのため、剣月さんの詩へ降り立った読者は、そこが本当のところどこであるのかを知れないかもしれない。けれど、別に知らなくても良いのだ。そこに何があるのかはわからなくても、そこには生物たちの吐く濃い吐息があり、土の匂いがあり、目だけではなく全身で空気を感じることができるだろう。

■詩集「Frescos」の人々

 『Frescos』は2005年10月に星雲社より刊行された剣月さんの処女詩集であり、おそらく唯一の詩集のようだ。(インターネットで検索する限りこの詩集しか見当たらない)
 そしてこの詩集では、上にあげた『詩学』投稿欄の作品とは少し異なる詩の世界がある。

  森沢 イコ

朝 カンテン
昼 セロリ
夜 トーフ
そんな暮らし

森林街
昔オバが小さく建てた家にいて
まだらもようの手足を見詰めた
揺れるシュロの葉
あわぶく光を

シバを食むシカのよう
罪がないオバの記憶
シュロ アオキ ヤツデ ツルウメモドキ
鳥が糞した大切な庭

種子散布者という生き方

左足がひとりでに動いている
コレはうれしいのだなと思う

木曜日
ヒトの世界で今日は
木曜日という生き方


沸き立っていた
沸き立つとき 窓を開ける
外 だれひとり 怒っていない
なにも起こっていなかった
虫 ひとり入ってきた
顔のかたちに沿って 飛んだけれど
イコは手で振り払わない
顔 じっとしていたら
仲睦まじい 森林街にいられた
金輪際 青の他人
感じいい 青の他人 そう
生分解性にすぐれた想いだった
澄んだ水になるばかりの


しない音
こころの音しない

盛り上がる根の段差を愉しみ
キジバトが歩いている
中の音

遠くで
シカが振り返って
こちらを見ている

森沢イコは
音無しく暮らす

 この詩集では、詩集一冊を通したコンセプトとして、多くの人名が登場し、その人物たちが人間関係を綾なす様を描くという試みがされている。
 上に引用した詩の題名にもなっている森沢イコ。
 そして、青井ユキ、沢森初、日野慶子、といったフルネームで呼ばれる人物たち。彼らが関わりあいを持ちながら、それでも一人一人の個である状況と精神世界が描かれている。彼らは現代の日本に生きていて、「新習志野駅」のホームの階段を駆け下りたり、夫が部屋を汚すことに苛立ったりしている。そんな日常生活を送る普通の人々であるのだが、詩で描かれるその様は、やはりどこか野生動物のようでもある。

 そんな彼らの詩の中での立ち位置は、「マルコスさん」とは少し違っている。
 ふたたび“視線”を意識して次の詩を読んでもらいたい。

日野慶子は
薔薇といえば薔薇の花の部分だけを
思い浮かべ
菊といえば菊の花の部分だけを
決めて菊と云う
沢森は
枯れ葉一枚 種一個にも
同じ名前をつけているのだが
慶子といえば
顔だけに向かって慶子と云った

(「家、木々、イコ」より抜粋)

 「マルコスさん」において作中の視点人物はあくまで人称のない“わたし”だったのだが、「Frescos」ではそれがイコやユキ、慶子といった登場人物たちに変わっている。
 つまり、剣月亨の詩の世界を、これまでの近視眼的な視点ではなく少し離れたカメラで見ることになる。

 投稿欄の詩では、カメラと“視線”はほぼ一体であった。だから私たちは、その庭で起こることをまるで自分の経験のように感じることができたのだが、だからこそ、その世界はぱっと広がって、詩の最後の一行とともにふと消えてしまっていた。
 だが今度は、カメラは登場人物たちを写すことを止めない。慶子はどうなるのか。ユキはどうなるのか。剣月亨という才能が描く世界のさらに奥へ奥へと進んでいくとそこには何があるのか。少し大げさな言い方になってしまったが、この詩集に描かれているのはその先である。
 とはいえ、この詩集のストーリーの結末は、大きな事件が起こるというわけではなく、大仰にドラマチックなものではない。詩的な意味でのドラマはあるのだが。それは、現代の日本に生きる人々の普通の光景とその有り様である。

ショウと茶子が うちへ来る前
毎日遊んだ干潟はここか
三番瀬が本当のお母さんなのか
沈まないところをこわごわとゆく
カイガラを踏む音におののきながら
わけがわからない 新には読めない
泥の意匠

どんなに歩きまわっても新は
日野慶フーズの跡取り息子

(「火木のヒト」より抜粋)



 先に私は剣月さんのことを、草や土のにおいの中に生きる人だと書いた。そうなのだと思う。
 しかし、私は剣月さんの知り合いではないし、当然ながらこの人が実際どこに生きていて日々何を思っているのかなど知らない。
 だから私は、私たちは、読者として詩を覗き込みながら、この詩人が遊ぶ庭で詩人と同じ夢を見るしかない。

 “視線”を通じて剣月亨の世界を見るとき、私は風が吹き抜ける草原に立つような心地よさと、一瞬の閃きのような涼しい快感を感じる。
 これは筆者である私の感覚であって、剣月さんの詩を読む別の人もそうであるとは思わない。詩とはその程度にナイーブ(個人的)なものである。

 けれど私はこの感覚に従って、それはどうしてだろう、と思うのだ。
 そして、それはたぶん、剣月亨という詩人の“視線”が、怜悧な視力と、気高い公平さを併せ持っているからなのだと思う。
 最後に引用するのは詩集『Frescos』の巻頭詩である。

頬被りをした男は
青井ユキの 目も見ない
見てはいるが 青井ユキの
後ろの 真っ暗に 睡る 田の
後ろの アカマツ林の 後ろの 後ろ
ずっと 遠くに 向かって 話している
広大無辺に 公平な ヒト かも

(「美しいヒト」より抜粋) 

 この出会いのシーンから、詩集『Frescos』は始まる。以後、頬被りをした男=沢森に惹かれた青井ユキは、彼を追いかけていくことになる。

 「ずっと 遠くに 向かって 話している/広大無辺に 公平な ヒト」

 それこそがまさに剣月亨という詩人の在り方であると私は思う。そして、詩人の目とは、元々にしてこのようにあるべきではないだろうか。
 ヒトも、鳥たちも、新習志野駅周辺の風景も、草や木々も。広大無辺に公平であること。そして、ずっと遠くに向かって話すこと。

profile

小倉拓也(おぐら・たくや)

2004年度詩学最優秀新人賞。当時の筆名はクロラ。
詩集『火は綺麗』 2010年 白昼社

>>essays