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松沢桃『夢階 ゆめのきざはし』

(書肆山田、2012年12月12日発行)


なぜ詩は書かれ、そしてけっして少なくないお金をかけて詩集というかたちになり、世に送り出されるのだろうという疑問に確かさをもって答えてくれるのは、たとえばこうした詩集であろうと思います。

この本のあとがきを引きます。

 発表の場をもつことなく、十代の頃から詩と
小説の習作を書き散らしてきました。四十代半
ばでの詩人新井豊美氏との出遭いにより、氏の
薫陶のもとに、詩人の末席に名を連ねる現在が
あります。
 今年一月、氏が息を引き取られました。わた
しには急逝とうつりました。ご病気を承知して
いなかったわけではないのですが、結局のとこ
ろ、直接お目にかかって、これまでのご厚意に
対する謝意を申し述べることも、永訣のご挨拶
をすることもできずじまいでした。回復される
ことを信じており、悔やんでも悔やみきれませ
ん。
 このたびの詩集は、二十四篇中十八篇が氏の
永眠後に執筆したものです。詩作することが、
わたしなりの氏への散華になるのではないかと
思えたのです。溢れ出るもの、胸底に滴りおち
るもの、傷み、空虚な時の流れ、喪失感等々を
詩(かたち)にしました。
 本誌集が、氏へのささやかなオマージュとな
ることを祈念しています。

         二〇一二年盛夏 松沢桃

詩集とは、誰にも気づかれない、何の報いもない、ただページのうえに言葉がならび、それらが詩を成し、一冊の本の姿になっている、そんなものであってもいい、むしろ、そんなものでありたいという姿だと、この詩集は告げているようです。

個人的なことがらは、必ずしもどこかへ辿り着くべき目的を持っていずともよく、ただ、その個人的なことがらそのものとして、佇んでいるだけであることが最上な場合があると知らされます。

読んでからまだ一年と数か月ほどが経ったところですが、この本を手にし、ページをひらき、読み終えたときの印象は、ゆらゆらとたゆたうようにいまも残っています。

歯軋み   松沢桃

うかつにきょうをあるいていた うつく
しいひとが しのとこにあるのもしらず
しりえたのはふほうのきじ かろうじて
はたすさいごのわかれ いのちをちぢめ
たのはALSとはじめてしる みまいを
ひかえていたおろかさをおぼえた あさ

文/白井明大

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