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今月のコトバト

2015.7

 ジャン・ポウル・サルトルに
    ──ユダヤ人を読んで──   茨木のり子

どこかの村のなつかしい風俗のように
わたしはいつも頭の上に
大きな籠を乗せている

籠のなかにはいくつもの疑惑がいっぱい
醗酵するパンのようなもの
熟しかかったくだもの
しなびてしまった棗の実
醒めんとして醒めずまだまどろんでいる
怠惰な花の蕾のようなものがいっぱい

晩い春のある夕暮
一冊の薄いユダヤ人を読み終えて
静かに伏せると
突然籠のなかの疑惑のひとつが
見事に割れた ざくろのように

ユダヤ人はなぜ迫害されるのか
ユダヤ人はなぜ憎まれるのか
ユダヤ人はなぜ金貨に唇をおしあてるのか
熱烈に 濃厚に 性的に近く
そうしてさびしげに……
素朴なしかし消えることのなかった疑惑が
一度に爆発する

基督を輝かせるために長く陰翳の役を
担ってきたかれら
事があれば一番はじめに槍玉にあがるかれら
解放のうたが鳴りひびくときは
忘れられてしまう闘ったかれら
いかなる操作にも溶解しない気がかりな
いらだたしい或る結晶!
いためつけられ追われ
共同の記憶を持たないことによって
歴史を持たされなかったことによって
一番古い民族は一番新しい民族として
世界をさまよい歩いたのだ
人間性とよばれるものの暗い暗い手が
無意識に動いて 生み 育て
つきはなした標的 ユダヤ人
〈うまくゆかないのは皆あいつのせいだ〉

朝鮮のひとびとが大震災の東京で
なぜ罪なく殺されたのか
黒い女学生はなぜカレッヂで学ぶことが
できないのか
わたしたちすら誰かにとってのジュウに
擬せられてはいないか
わたしには一度にわかる
連鎖して立ついたましい事件の数々が

サルトル氏
わたしはあなたを深く知っているわけではない
ユダヤ人の生態も表情も身近なものではない
人間への戦慄はまたひとつ増えたが
とまれ今あるものは純粋なひとつのよろこび!

現実の髭がこのために
たとえピクリともしなくたって
これはきっといいことに違いない
一九四七年あなたがパリで執筆した
──ユダヤ人問題についての考察──が
一九五六年
毎朝毎朝洗濯ものを万国旗のようにかかげる
わたしの暮しのなかに
とどいたということは

shoubousha

illustrated by ©Yuh Morimoto

 茨木のり子の詩を浴びるように読みたいと思い、全詩集を手にしました。上に引用した「ジャン・ポウル・サルトルに」は初出が1956年7月「現代詩」、そして2年後の1958年に詩集『見えない配達夫』に収められます。

 人種や信仰、身分等を理由に根深い差別があることに、心を痛めるさまが、この詩の通奏低音です。その痛みを、怒りに昇華させ、さらにその怒りをも、人と人を結ぶ知にゆだね、人の善性を信じんとする詩人の姿が見えてきます。

 これほど力強い言葉で、人の心の闇に手を突っ込んで、そして取り出されたのが「純粋なひとつのよろこび!」であるとするこの詩に驚かされます。「現実の髭がこのために たとえピクリともしなくたって これはきっといいことに違いない」とそう言い述べるのは、どんなに根深い人の業であっても変えられないことはないはずだという、それが確信である以上に希いであることかもしれません。「連鎖して立ついたましい事件の数々」が「一度にわかる」時がわが身に訪れ、「人間への戦慄がまたひとつ増えた」としても、と。

 この詩に表れているのは、人間の強さでしょうか、詩の言葉の強さでしょうか。いずれだとしても、その強さとはどこに拠って立つものでしょうか。
 月並みな言い方ですが、ちっぽけな一人の人間が燃焼させる、その一個の命の限りこそが、強さの源にあるのではないかと思います。その一個の命を燃やしたときに、どこまで人は強くなれるか、その限界を突き詰めたならこうまでなれると告げて、詩が目の前に立っています。

 問い   茨木のり子

人類は
もうどうしようもない老いぼれでしょうか
それとも
まだとびきりの若さでしょうか
誰にも
答えられそうにない
問い
ものすべて始まりがあれば終りがある
わたしたちは
いまいったいどのあたり?

颯颯さつさつ
初夏はつなつの風よ

文/編集子

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