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今月のコトバト

2015.3

 神田神保町   岩田宏

神保町の
交差点の北五百メートル
五十二段の階段を
二十五歳の失業者が
思い出の重みにひかれて
ゆるゆる降りて行く
風はタバコの火の粉をとばし
いちどきにオーバーの襟を焼く
風や恋の思い出に目がくらみ
手をひろげて失業者はつぶやく
ここ 九段まで見えるこの石段で
魔法を待ちわび 魔法はこわれた
あのひとはこなごなにころげおち
街いっぱいに散らばったかけらを調べに
おれは降りて行く

神保町の
事務所の二階の
曇りガラスのなかで
四十五歳の社長が
五十四歳の高利貸と
せわしなく話している
電話がしぶきを上げるたびに
番茶はいっそう水くさくなり
ふたりはたがいに腹をさぐって
茶よりも黄色い胃液を飲みほす
やがてどちらも辟易したとき
平気をよそおい社長がささやく
教えて下さい クビ切りの秘訣を
苦労しますよ 組合の軛にゃ
国へ帰って栗でも喰いたい
あこぎなあきない などと答える高利貸
あんたが飽きたらあたしもあがったり
あきらめるならあっさり足を洗って
あしたまた当てるさ

神保町の
横町の昼やすみ
二十人の従業員が
二つしかないラケットで
バドミントンをやっている
羽根はとんびのように飛びあがり
みんな腕組みして目玉だけ動かす
とんびも知らない雲だらけの空から
ボーナスみたいにすくない陽の光が
ぼろぼろこぼれてふりかかる
縄でくくった本の束の
背よりも高い山のかげから
草そっくりの少女がすりぬけてくる
ほそい指でまぶしい光をはじきとばし
ふらっとわらってハンケチを洗う
アルミニュームの箱のなかの
しろいおこめとくろいつくだに
神保町の
ラジオがどなる
つまり夫を殺しつつ
おっとり妻を叩きつつ

神保町の
交差点のたそがれに
頸までおぼれて
二十五歳の若い失業者の
目がおもむろに見えなくなる
やさしい人はおしなべてうつむき
信じる人は魔法使のさびしい目つき
おれはこの街をこわしたいと思い
こわれたのはあの人の心だった
あのひとのからだを抱きしめて
この街を抱きしめたつもりだった
五十二ヵ月昔なら
あのひとは聖橋から一ツ橋まで
巨大なからだを横たえていたのに
頸のうしろで茶色のレコードが廻りだす
あんなにのろく
あんなに涙声
知ってる ありゃあ死んだ女の声だ
ふりむけば
誰も見えやしねえんだ。

tonbi

illustrated by ©Yuh Morimoto

 「九段まで見えるこの石段」とあるその九段とは、神保町からほど近い九段の街のことでもあるのでしょう。「あこぎなあきない などと答える高利貸/あんたが飽きたらあたしもあがったり/あきらめるならあっさり足を洗って」といった言い回しは、同じ音が重なり合って畳みかけるように、リズムとともに言葉を響かせてきます。詩の全体を覆う悲壮さを、そうした言葉の調子がやわらげることも薄めることもなく、ただただ並走していきます。

 それは怒りと悲しみとが、この詩人において、ほど近いところにあるからでしょうか。

 心の底を空に映そうとでもするように、どんなに言葉を尽くしても詩が尽きることはなく、怒りややるせなさを媒介として悲しみをこわした向こうに現われる、その詩だけを残すこと。こわすことで生まれるものがあるのを知っているのは、まるで熱した鋼を叩く鍛冶職人のように、心がどんなに変型していくかのようでも、叩くほど詩が鍛え上げられると心得た詩人の手つきです。

 住所とギョウザ   岩田宏

大森区馬込町東四ノ三〇
大森区馬込町東四ノ三〇
二度でも三度でも
腕章はめたおとなに答えた
迷子のおれ ちっちゃなつぶ
夕日が消えるすこし前に
坂の下からななめに
リイ君がのぼってきた
おれは上から降りて行った
ほそい目で はずかしそうに笑うから
おれはリイ君が好きだった
リイ君おれが好きだったか
夕日が消えたたそがれのなかで
おれたちは風や帆前船や
雪のふらない南洋のはなしした
そしたらみんなが走ってきて
綿あめのように集まって
飛行機みたいにみんな叫んだ
くさい くさい 朝鮮 くさい
おれすぐリイ君から離れて
口ぱくぱくさせて叫ぶふりした
くさい くさい 朝鮮 くさい

今それを思いだすたびに
おれは一皿五十円の
よなかのギョウザ屋に駈けこんで
なるたけいっぱいニンニク詰めてもらって
たべちまうんだ
二皿でも三皿でも
二皿でも三皿でも!

 人間には羞恥の感情があるからこそ、己の愚かさ、浅はかさをふり返っては、燃えるような恥ずかしさや情けなさに堪えながら、それを告白することもできる。どんなに低劣な行為をしたかを丸ごと告白することが、ただ己を、のみではなく、差別という一つの心の悪の類型そのものを照らし出しさえする明確さで。

 人間から逸れていくことを、時に人はしでかしてしまいます。その悔いを、まさかギョウザの二皿や三皿で償えるはずもない、と承知の上でこの詩のように書くのは、子供時代の愚かさを、いまの愚かさで以て、おれはバカだった、おれはバカだ、と言い続けることしかできない羞恥の姿だけを差し出すふるまいです。詩を書いて、書き手が救われるわけではない。それでもこの詩を読んで、受け取れるものがある。この詩のなかで、時間は無です。過去でもなく、いまでもなく、無の時間に身を置くとき、詩が書き手を救わずとも、書かれた言葉が書き手の心を掬い上げることはあるのかもしれません。

文/編集子

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