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柿沼徹『ぼんやりと白い卵』

(書肆山田、2009年8月31日発行)

 一冊の詩集があって、誰かにその魅力を伝えたいとき、ただその一冊を手渡すことのほかには、何も方法がない。私にとって素晴らしいと感じられる詩集はたいていそのようなもので、だから私は、好きな詩集について話すことが苦手だ。あまり好きでない詩集についてなら、いろいろ語ることもできそうだけれど……。
 「私はこの詩集が好きなんですよ」なんて、軽々しく誰かに言うわけにはいかない。「どこが好きなの?」と問われたりしたら、分かりやすく簡潔な言葉なんかで、無理やり説明する破目になる。そしてそれは間違いなく、うまくいかない。

亀の音   柿沼徹

何が欠けているのか

部屋のすみに水槽があり
水槽のなかで亀が這いあがろうと
ガラスをひっ搔いている

何が欠けているのか
それがわからなければ
それをとりもどすことができない

這いのぼろうとして立ちあがり
そのまま背後に倒れこみ
また這いあがろうとする

食卓、時計、空き瓶、水道の蛇口…
なにひとつ欠けているものはなく
同じ今のなかで静まっている

爪がガラスを搔く音がつづき
なんのいわれもなく、亀の音と私は
同じ今に塗り込められている

ガラスを搔く音がつづき
何が欠けているのか
それがわからない
ということがわからなければ
それをとりもどすことができない

 はっきり分かると感じられたとき、人はそれについて考えることをやめる。だから当たり前のことだけれど、考えつづけるということは、分からないままで居つづけるということだ。人間は何でもすぐに分かりたがるし、とりわけ今の世間では、大きな声で答えを叫んでいるような人がたくさんいるから、分からずに居つづけることの方が難しい。
 そうだとすると詩の持つ豊かさとは、たとえば「啓示のように降りてくる何かの答え」みたいなものだとは思えなくて、むしろ分かりきったことさえも際限なく分からなくしつづける営み、のように思える。「詩を読んでもちっとも分からない」という巷の不満は、詩にとってみればほとんど誉められているようなものかもしれない。

 「この詩集の、どこが好きなの?」と仮に問われれば、私はきっとそのようなことを言うだろう。相手はきっとよく分からないような顔をする。そうするともう、答えるかわりに詩集を手渡すことのほかには、何も方法がない。

動かない旗   柿沼徹

 十年後に十年後になるのと
 あすの朝起きたら十年が経過していた
 というのと
 どこが違いますか?

いつまでたっても
いまは今だ
喫煙室の窓からみる景色の奥に
無風の旗がたれさがっている

 え、なに?
 言っていること分からないな

午前三時に生まれた嬰児に、注釈的な名前をは
りつけ、なおも朝と夜の街路を往復しているう
ちに、いくども送電線をかすめて鳥が飛来し、
父が骨になり、次女の乳歯が抜け落ちたので、
その春のツツジは鮮やかだった。

たれさがった旗が、動かないのが見える。窓が
ありふれた光景を、敢然と、切り出している。
あらゆる出来事は、すでに終わっている。

すでに始まっている

文/古溝真一郎

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