reviews
詩と出会う

essays
いま

interviews
人と出会う

《第二期》詩の散歩道 15

冬の寒さにこわばった肩のあたりを軽くほぐしてくれた詩、みっつ

阿蘇豊

 やっと春。庭のフキノトウのきみどりがそれを告げる。今まで灰色だった空が青く染まる。海が見たくなって車を駆ける。夕暮れ時の砂浜には誰もいない。風がまだ冷たい。一日の記念に波打ち際に落ちている貝がら、小石を拾いポケットに入れる。そんな中で――

  花の温度

熱くて
さわれないような
花はない

部屋の温度を
強くしても
花は
熱くならない

花弁に
指でさわると
いつも
花瓶の温度と
同じくらい

花瓶の
水ばかり
飲んでいる
せいだろうか

(一日中
(澄ました顔で
(水の中

熱いのか
寒いのか
気も知れないから
着物も
着せられない

 (大橋政人/詩集「まどさんへの質問」より)

 いろいろな詩がある。わかりやすい詩、ムズカシイ詩、堅真面目な詩、ひょうきんな詩・・・詩ってなんだろう、と考えても答えはすぐに出ないけど、先ごろ新聞で見かけた井上ひさし氏のことばに手がかりを見る。「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに」これは詩にも当てはまる。
 だいたい誰が「花の温度」なんて気にするだろうか。花の形、色、においなどは花を味わう要素になるけれど、その花びらが冷たいかあったかいかなんて。昔、詩を書くコツとして、事物をよくよく観察すること、なんて先輩詩人に教えられたけど、「花の温度」という着眼は観察をはるかに超えている。これぞ発見!そして先のことばを引けば、この詩、やさしくて深い、そしてどこかとぼけた味がする。

  「私、まちがってませんよね。」

寒い雨の日だった
バスのステップを上がり カードを差し込む
後に続く人が 一瞬とまどった気配に
「私、まちがってませんよね。」
運転手さんは 差し込んだままの私のカードを
引き抜き手渡してくれながら 優しい声で
「ええ、まちがってませんよ。」と答えた

座席に落着いたとたん
なぜか涙があふれてきた 後から後から

雨の音に促されるように終日涙を流し
夜になっても流し続けた
疲れるから止めようと思うのに流れ続けた
雨は とうに止んでいたのに

夫がアルツハイマーと診断されても 泣かず
郷里の母が死んでも 泣けなかった

 子供の頃「人間はどうして死ぬの。」とたずねたら
 「いつまでも生きていたら、後がつかえるだろう。」
 と答え 私を絶句させた母 その母は良く生きて
 九十六歳で くうの世界へ旅立って行った
 見送りは間に合わなかった

ここ数年 次々に起こった 常ならざる出来事
安っぽい私の涙など必要としない 緊迫した日々

ソレガドウシタ という呪文が
心身ともに柔な私が
何処からともなく授かった武器だった

「御主人は、うつと痴呆の境界線上にあります。」
ソレガドウシタ

「お隣が火事です! 逃げてください。」
ソレガドウシタ

「御主人は、住所と電話番号が言えなくなりました。
 最寄りの交通機関も解らないようです。事故に遭わ
ないように気を付けてあげて下さい。」
ソレガドウシタ

「御主人は、まだ見付かりません。」
ソレガド……

「母さん、明日まで持たないよ。」
ソレガ……

切れ味の良い武器とは言えなかったが
私は それを振り回して
狂雲ただよい
禍事が潜む現実を切り抜けてきた

それを 私は取り落してしまったらしい
「ええ、まちがってませんよ。」の
優しい一声に打たれて

 (市川愛/詩集『アルツハイマー氏』より)

 アルツハイマー。我々中高年にとって、それこそ禍々しい言葉だ。一つのことば自体がこのぐらい強い力を持つ例もそんなにはないだろう。ご主人の発病以来、その言葉と毎日向き合わなければならなくなった作者の心中を思うと胸が痛む。ただ、この詩集は、そしてこの作品はその日々の辛さのみを詠ったものではない。張り詰めた時間の中に一瞬訪れたエアポケットのような一瞬の出来事。作者が思わず発した「私、まちがってませんよね。」を受けた運転者さんのひと言、「ええ、まちがってませんよ。」に、ピンと張っていた糸が切れてしまう。
 その時なぜ泣いたか、なぜ泣き止まなかったか。「やさしい」ことばにほだされたとしても、それだけではない、ソレガドウシタと必死にこらえていた幾重もの思いが一度にあふれてしまったのだろう。それしか言えない。これ以上、私がわかったように書くのは許されない。この詩はそんな思いが押しつけがましくなく記してあって、読み手の心に染み入ってくる。

  あのひと

あのひと
こどものころ
たべてたんじゃない
あのビスケット

ヒツジとか
ラクダとか
いろいろ あったでしょ

ライオンたべるとき
えいっ って
わざと はをたてなかった?

あのひと きっと
こどものころ
ナマケモノばっかり
えらんで たべてたのよ

という
あのひと とは
わたしのことです
たしかに わたしは
砂漠で荷を負う
ラクダより
密林の樹に
ぶらさがっている
ナマケモノの方が好きです

ただ
あのビスケットに
ナマケモノは入っていませんでした

入っていなかった
ナマケモノを
ずっと口の中で
かまずに なめていると
あのころも 今も
知らないうちに
日が暮れているのです

 (山本純子/詩誌「ヘロとトパ 第2号」より)

 これは勉強になるなあ。あんまり天気がいいので、ヤッとばかりにスニーカーをはき、歩き始める。角に出会ったらその角を適当に曲がり、また曲がり、また曲がったら、知らない町が広がっている――そんな風景を思わせるそんな詩。
どうして「あのひと とは / わたしのことです」とタネ明かしをするんだろう。
「入っていなかった / ナマケモノを」なめているっていったい?
なぜ前半はひらがなだけの表記で、後半は漢字混じりなんだろ。
だいたいこの詩、何が言いたいの?
なんて、既製のつまようじでつつくと、パチンとはじけて何もなくなってしまう。だから遊ぶ。合理的な説明などいらない。ただいっしょに遊ぶ。ほら、そんなにムズカシイ顔しないで。既製の息を吐いて、ここの空気を吸ってみよう。で、どう?なにが見えた?

profile

阿蘇豊(あそ・ゆたか)

1950年生 山形県酒田市出身
詩集
『窓がほんの少しあいていて』(ふらんす堂、1996年)
『ア』(開扇堂、2004年) 他
『とほく とほい 知らない場所で』(土曜美術社出版販売、2016)
『シテ』『布』『ひょうたん』同人

>>阿蘇豊の詩を読んでみる

>>essays