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《第二期》詩の散歩道 11

半日浜辺で竿を振った汐くさい指を立てて読んだ詩、みっつ

阿蘇豊

 どうしたんだろう。今年の六月は、寒い。どこか肌寒い。情緒的な雨が落ちてくるわけでもなく、このところ日中は温度が上がるのだが、朝晩が少し冷え込むのだ。そのおかげで、なのかどうなのか、浜辺から投げてククッとくるあの、キスのあたりがない。風もなく、この波で、なんで来ないんだ、去年はここで、鱚という名の通り喜ばしてくれたじゃないか、とつぶやいてみても、応えてくれる気配はまだない。

  赤ん坊のみなさんへ

赤ん坊のみなさんへ
念ずれば通ずですから
必ず
念じてくださいね
願いが叶います

寝返りが
うてるようになったら
ときどき
反対のほうを
見た方がよいですよ
一方だけでは
肩が凝りますから

笑えるようになったら
声が聞こえてくるほうと
違う方角を向いて
笑ったほうがよいですよ
勘違いをされることが
ありません

ことばが
わかるようになったら
「いいえ」
を覚えたほうがよいですよ
従順だと思われなくて
済みます

赤ん坊のみなさん
念じてくださいね
願いが叶います
親を替えること以外は

 (遠藤敦子/詩集『禳禱(いのり)』より)

 こういう詩はなかなか男には書けない。我が身の中で10ヶ月育ち、やがて赤ん坊を産み落とす女性であればこそ、注ぐことができるあたたかい、細かな視線を感じる。よく観察してるな、そう思いながら、「笑い」の3連、「ことば」の4連などではけっこう辛辣な部分も見えて、それがこの詩を単調な赤ちゃん賛歌に終わらせず、味わい深いものにさせている。これから始まる人生はそれほどストレートなものではないんだよと、諭され、処世術を教えられてるようで、つい、私も「ハイ」と言って背筋を伸ばしてしまいそうになった。最終連も同様にピリリと締められていて、いっそ爽快。落語の小話を聞いているようだ。

そうだ、思いだした、こんな詩。

  桃の節句に次女に訓示

なくときは
くちあいて
はんかちもって
なきなさい
こどもながらによういがいいと
ほめるおじさん
いるかもしれない
ぼくはべつだん
ほめないけどね

ねむるときは
めをとじて
ちゃんといきして
ねむりなさい
こどもながらによくねていると
ほめるおじさん
いるわけないけど
とにかくよるは
ねむりなさい

 (辻征夫/詩集『かぜのひきかた』より)

 この詩に色あせない魅力を感じるのだが、なぜだろう。わかりやすい、かわいい、ユーモラス…そうだね、加えてテンポのよさかな。自分にも書けそうだと思って書いてみたこともあったっけ。けれどこの詩もちょっと意地悪なおじさんの登場なくては、ただ可愛いというばかりの薄っぺらな詩になっただろう。それぐらいわかる。そしてそのおじさんを見つけることこそが難しいんだってことも。

  夕暮に

いつもより早い帰り道
八百屋の前を通りかかると
買い物をする主婦たちの中に 気になる後ろ姿
妻だと気付くのに 少し時間がかかった

手を伸ばせば届くところを
すり抜けたのだけど
声はかけなかった 振り向くことで
壊れてしまうものがある

何年も前に どこかで見たような
かすかな 輝き
いつの間にか 忘れていたもの

原色の トマトや キュウリの前で
もう 若くはない妻との日々が
何年目になるのか 思い出そうとしていた

 (鈴木正樹/詩集『壊れる感じ』より)

 第2連の「振り向くことで / 壊れてしまうものがある」、ここ、いいな。カッコイイ。読み手が自分のこととしてあれこれ想像することができる。他はけっこう具体的な情景なんだけど、この部分や次の連は読み手の感性を誘い込み、リアルに反応させる力を感じる。
 それにしても、第三連の「輝き」とは何だろう。奥さんが発するそれか、第二連の微妙な状況が生む輝きか。はっきりわからないが、わからなくていい。謎めいたまま、輝いている、そこがいい。
 この詩のように日常のささいな出来事が、切り口の角度によって輝くときがある。それをすばやく捉えることができ、捉えた不定形のものを、ことばという形に焼きつけることができれば…。そんな届かぬ思いを、「いつもより早い帰り道 / 八百屋の前」で、私もつい反芻してしまった。

profile

阿蘇豊(あそ・ゆたか)

1950年生 山形県酒田市出身
詩集
『窓がほんの少しあいていて』(ふらんす堂、1996年)
『ア』(開扇堂、2004年) 他
『とほく とほい 知らない場所で』(土曜美術社出版販売、2016)
『シテ』『布』『ひょうたん』同人

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