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《第二期》詩の散歩道 6

リオの興奮冷めやらぬうちに出会った詩、三つ

阿蘇豊

 8月が過ぎ、静けさが戻った。2016年の8月はとりわけうるさかった。耳の中で出るに出られない羽虫が、ブィーンブィーンと飛んでいる気がした。連日連夜続いたあの暑さ、毎年のことではあるが、お盆前後のどこか落ち着かない気分、そしてあの、リオ・オリンピック!興奮冷めやらぬ17日間の最後まで沸騰した夏。ドラマを見ているような、8月が終わった。

 知らない方からの詩誌、詩集をいただくのは楽しい。最近は楽しいと思えるようになった。中を開いて、とりあえず10分ぐらい目を落として当たりをつけておく。その時に読み通すことは、まずない。なぜだろう。おいしいものを最後まで残しておいた幼少期のなごりだろうか。今回は次のような作品に出会った。

  つぎの駅まで

都心まで通う
いつも通りの朝
ふっと思いついて
つぎの駅まで歩いた
線路に沿ってぶらぶらと

わたしのかたわらを自転車通学の高校生たちが追い越してゆく
シェパード犬を連れた白髪白鬚の老紳士が追い越してゆく
オートバイの爆音と銀色のヘルメットが追い越していく
幾十もの自転車とトラックの排気が追い越してゆく
そろいの体操帽をかぶった子どもらがあとになり
先になりしてわたしのまわりを駆けぬける
あらゆるものがわたしより速い

満員の乗客を乗せた電車がわたしのそばを通りすぎる
わたしの乗るはずだった車輌が通りすぎる
わたしの不在が通りすぎる
誰もわたしを見ない

わたしはアスファルトのわれめでガラス片が光るのを見る
スーパーの前に並んだ冬の蜜柑のみずみずしさを見る
駐車禁止のねじまがった標識の傷あとを見る
市会議員の傾きかけたポスターを見る
左方向に大きく旋回してゆく
ジャンボジェット機を見る

通りすぎる電車を見る
乗客たちを見る
わたしの不在を
わたしは見る

 (服部誕/詩集「おおきな一枚の布」より)

 「わたしの不在が通りすぎる」、このフレーズにピリッと反応した。イイナ。日常の具体からヒョイと異次元に迷い込んだような心もち。いるはずのところにいずに、いないはずのところにいる、「誰も私を見ない」。あたかも透明人間になったような気分。
 日常をはみだして、あらゆるものに追い抜かれながらぶらぶら歩く目がとらえたのは、アスファルトの割れ目のガラス片であり、冬の蜜柑のみずみずしさであり、ねじ曲がった標識の傷あと、傾きかけたポスターというふうな、まわりに実在する、今まで気にも留めなかったあれこれのディテールだ。最後の部分、「私の不在を」、「わたしは見る」ことを通して、新たな自分と物事との実在を確かめることができたという安堵の息のように聞こえる。

 最近読んで、フフフともらい笑い(そんな笑いがあるか?)した詩を紹介したい。

  はかりしれない水のゆくえ

洋裁店の帰りに芳林堂で立ち読み
私の投稿詩が一席に載っているのを確認した
「水のゆくえ」は流れ流れて
投稿雑誌の一ページを飾ったのだ

ある日同人誌が送られてきた
消印は名古屋
投稿雑誌に載った住所を見て送ったとあった

ひくみへひくみへ
ときには落下しても さらに
流れ流れて
名古屋にまで達したのだ
「水のゆくえ」は はかりしれない

「異神」の同人になった
編集発行人は真理さん
花柄の便せんに 丸文字で
上京するから会いたい とある

池袋西武デパートのエスカレーターの下で
待ち合わせてみると
若い男性だった!

水にみちびかれて
出会ったのだ
「水のゆくえ」は はかりしれない

 (岡島弘子/詩誌「ひょうたん59号」より)

 実際の出来事をそのまま記録しながら、どうにも口当たりのいい、口元がゆるんでしまう一篇に仕立ててある。へんに力を入れず、普通のことばで淡々と語っているのも好ましい。
 「ひくみへひくみへ」と水は流れて、思いがけないモノガタリを生む。お二人のなれそめ(?)をこんな形で知るのもおもしろい。
 最近は、読んで心が明るくなるような、楽しい詩が少なくなった、などといえるほど詩を読んでいるわけではないが、自分の感覚として、そう言いたい気がしている。この詩に出会って、久しぶりにほっとした。

 思い出した。忘れかけていた一編の詩。忘れていなかった。

  クリスマスイヴ

忘れかけていた男に出会う
ケーキをぶらさげて
女のところへ行くのだと
照れて口籠もる
お茶に誘うわたし
よろこんでついてくる男
駅前の喫茶店で
飛び切りおいしいコーヒーを
ごちそうする

イブの入口で
ケーキの先の甘い時間を奪ってみた
男は腕時計を気にする
わたしが立ち上がると
まだいいと言う
女の作るシチューがおいしいなんて
自慢話をはじめる

忘れかけていた男が
無邪気に笑う
絡んだ道程がスルスルほぐれ
昨日まで何事も無かったように
わたしの中に沈んで行く
カップの中に残った模様
イブの出口が見える

うれしそうな男の声は
わたしの時間を奪って消えた

 (伊集院昭子/詩集「忘れかけていた男」より)

 出だしの一行がいいですね。「忘れかけていた男に出会う」。これで流れがあらかたわかる。忘れたいのに忘れられない、やっと忘れかけた男にひょいと出会ったらどうなるか。「お茶に誘うわたし / よろこんでついてくる男」、どっちもどっちの腹の探り合い。「飛び切りおいしいコーヒー」に見える相手の女に対する競争心、わたしの見栄が見え隠れする。ここでのこのコーヒーはわたしが「ごちそう」しなければならないのだろうな。
 一行一行のことばに、なつかしさ、恋しさ、うれしさ、悔しさ、嫉妬、反感、駆け引きなどの複雑な思いが絡んでいるように感じる。実は、私はここ3年ほど酒田のラジオ局でDJのパーソナリティーをやっていて、70年代ぐらいのJポップスや歌謡曲の歌詞について語ったりしている。そんなノリで味わい、楽しんだ。忘れかけた女に出会ったような、そんな一篇。

profile

阿蘇豊(あそ・ゆたか)

1950年生 山形県酒田市出身
詩集
『窓がほんの少しあいていて』(ふらんす堂、1996年)
『ア』(開扇堂、2004年) 他
『シテ』『布』『ひょうたん』同人

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