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《第二期》詩の散歩道 1

秋の陽を浴びて浮き立つ詩、二つ

阿蘇豊

 日本の秋。そんな言葉がピッタリくるような、きょうはいい天気だ。青い空に白い雲が浮いていて、風が少しある。うちの前の松林の中にウォーキングコースがあって、そこを30分ほど散歩した。歩きながらいろいろ思い浮かぶのだが、きょうは夏ごろ読んだ短い詩が浮かんできた。こんな詩だ。

  ライン

クロールのストロークで
私の手が動く距離は
100センチほどなのに
軌跡は同じではない

水をとらえようと
手のひらから 腕の側面
肩の位置 肘の角度 手の深さ
泳ぐたび
何度もくりかえし描かれる軌跡は
ぼやけ定まらぬ線の集まりだ

透明な水の中で 私は探る
見えないいくつもの線を

何度くりかえしても たどりつけないわたしを
水は 許してくれる
水は ずっと待っている

静かな水の中で泳ぎながら
わたしはただひとすじの
線を見つけたいだけなのかもしれない

 (森實啓子 詩集「泳ぐひと」より)

 タイトルの「線」を「ライン」と読ませるのはなぜだろう。初めはピンとこなかったが、再読して了解した。「線」だと紙の上に鉛筆やペンで引かれた実際の線をまず思う。引きたいのは「見えない線」なのだ。「泳ぐたび/何度もくりかえし描かれる軌跡」が引く「ぼやけ定まらぬ線」をひとすじにまとめた見えない線なのだ。イメージとして抽象化された「線」は、「せん」ではなく、「ライン」が似つかわしい。「ライン」と読ませることで、現実を抜け、非現実のステージにのぼっている。
 それから、第4連もいい感じだ。どうしてだろう。水の包容力を引き出して見せているからか。なんでもない表現だけど、妙に心ひかれるシーンだ。

 ライン、ラインか…。ここでは水泳だけど、ほかのスポーツにも、いや、考え方や生き方にも当てはまりそうだ。日常の体や心の動きを無駄なく、ブレなく、ひとすじのラインにまとめることができれば、生活はきれいに整理されたものになるだろうな。そんなことを思うと「ライン」というカタカナ語がにわかに崇高な輝きを帯びて迫ってくる。


 さて、一年半休刊していた詩誌「橄欖」が復刊した。第99号、おめでとうございます。その中の日原正彦さんの「カーテン」に私の鈍いアンテナが反応した。

ベランダの大窓の
カーテン
立っている のではない
吊るされている

カーテンに足はないが
その裾と床の間に ある
ない 何か

人は足で立っているが
本当はカーテンのように吊るされているのではないか
生に か
死に か

いずれにせよあのカーテンの裾と床のあいだにあったあの幅

いろいろな幅がひとのいのちにもあり
そこにひかりが洩れこんでいる

運命が

 まず、着眼の妙を感じる。カーテンを取り上げること自体なかなか珍しいと思うが、二連目の「裾と床の間」に「ある」「ない」には、ドキッとさせられた。裾と床のあいだの何もない空間に注目して、「ない」ことが「ある」ことを詩にするなんてね。「カーテンの裾と床のあいだの幅」が「ひとのいのち」のバリエーションを物語るなんてね。
 ≪オレはついつい、「したこと・あるもの」を材料にして書こうとする。でも、「しなかったこと・ないもの」にも目を凝らして見るようにしなくっちゃ≫とぼやいてしまった。
 そして最終行、「運命が」のみ、無造作に(見えるように)投げ出されている。なんだろう、これは。「が」以下は読む側にお任せなのか。想像力のテストなのか。それとも、人の最後は、こんなふうに何か言いかけて、やりかけてふいに閉じるんだという暗示か。
 ひとは立っているのか、吊るされているのかって?おれは立っているつもりでいるんだけど、たまにまだ乾ききらぬ洗濯物のような気分の朝もあるな。
 この詩、重いテーマにもかかわらず、この軽さはどうだろう。高い空を悠々と転回する鳶のようなのびやかさを感じる。

profile

阿蘇豊(あそ・ゆたか)

1950年生 山形県酒田市出身
詩集
『窓がほんの少しあいていて』(ふらんす堂、1996年)
『ア』(開扇堂、2004年) 他
『シテ』『布』『ひょうたん』同人

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